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【巻頭言】 |
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なぜ、成果主義への誤解・誤算が生まれたのか
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高橋克徳 |
私はもともと成果主義という言葉に抵抗感を持っている。なぜなら、成果や数値業績という言葉が、社員を追い込み、疲弊させ、さらに企業そのものが成果の先にあった志を失い、短期の利潤のみを追求する存在に急激に変わってしまった企業を目の当たりにしたことがあるからだ。それゆえ、自分がコンサルタントとして支援していく企業に対して、安易に成果主義という言葉を使わないようにしている。
成果主義を否定しているわけではない。右肩上がりの成長経済の終焉は、人も資源もまず抱え込むことで意図せざる成果を期待してきた蓄積先行型の日本的経営に待ったをかけざるを得なくなった。必ずしも成長が約束されなくなった状況の中で、中長期の雇用を前提に、定昇を維持する仕組みは成り立つはずもなく、成果が出て初めて見返りも得られる仕組みに移行せざるを得なくなったのは、必然の流れであろう。しかし、「成果」とは何なのかの議論を十分に行わないまま、数値業績ばかりを追い求め、社員を追い込み、リストラの理由づけとした企業が数多くあることも事実である。
もともと成果主義が目指していたものとは何だったのだろうか。それは成果=結果を追求し、結果に応じて報いるという単純な仕組みを入れることではなく、これまでの蓄積先行型の日本的経営に代わる新たな進化のメカニズムを作り出すことであったはずだ。問題は成果主義であろうがなかろうが、本当に自分たちが追求していく価値基準を変え、仕組みを変えて、継続的に進化できる企業に変革できたかどうかである。「成果」という言葉を短絡的にとらえ、都合の良いように解釈して活用した結果、逆に企業の成長を阻害するブレーキを作り出してしまった企業も数多くあるのではないか。
今一度、見極めなければならないのは、それぞれの企業、そこで働く個人にとって、何を追求することが、継続的な存続、進化を生み出すメカニズムの構築につながるのかということだ。本稿ではその基本フレームを提示し、成果主義の誤解や誤算がなぜ生まれたのかを明らかにし、本来目指す「主義」のあり方について論じる。
何が正しい成果主義なのかを論じることは非常に難しいが、少なくとも、成果主義という言葉が次のような誤解や誤算を生み出したことは確かであろう。
第一の誤解・誤算とは、成果そのものを短絡的に結果ととらえてしまったことである。しかも、短期的な収益、数値として表せる業績のみを結果としてとらえ、成果という言葉を矮小化してしまった。成果とは何かという、その企業の存在定義、基本戦略にとって重要なテーマを突き詰めることなく、株主価値につながる財務指標に集約し、その数字の意味を十分に検討することなく、社員に落とし込んでしまった。逆に社員も、顧客に対して提供する本質的な価値や中長期の成長のドライバーとなる成果を考えることなく、短期で目に見える結果を出しさえすれば良いと考えるようになった。極めて戦略的に重要なテーマである成果の定義をあいまいにしたまま、成果主義に突き進んでしまったのである。
第二の誤解・誤算とは、さらにその成果を追求していくのが、当然のごとく個人であると考えた点である。確かに、蓄積先行型の経営は、その時点で価値を出していない人、あるいは少々さぼっている人がいても、企業全体が成長していれば特にその人の働きを問う必要はなかった。しかし、成長経済の終焉は、そうした人材を余剰人材と定義することになり、成果を出していない人から順に排除しなければならなくなった。そのために、個々人を見極め、切り捨てる手段として、成果主義という言葉は都合の良い言葉であった。そこまで意図せずとも、組織の目標や上位者の責任があいまいなままで、現場の管理ツールとして個人ベースの目標管理制度を導入し、その成果を厳しく問う仕組みを入れることが、成果主義の導入だと考えた企業も数多くあった。このやりとりを繰り返すうちに、社員も賢い目標設定の仕方を覚え、大きなチャレンジ目標を掲げることなく、成果を主張する術を身につけてしまったのである。成果をめぐる化かし合いの構図になってしまった企業もある。
第三の誤解・誤算とは、経営者や役員クラスは例外であるかのごとく、成果主義の適用を免れてしまったことである。むしろ、最初に成果主義を導入すべきは全社成果への責任を負う経営トップ層であり、企業の数値業績によって厳しく評価されるべきである。しかし、その責任を負うべき経営者や役員クラスは、若干の役員報酬のカットをしながらも、その役職にしがみつき、個人としては何の価値を出していなくても高額報酬を受け取り続けてきた。ガバナンス構造の改革にいたっても、グループ会社や親会社との関係、さらにはオーナー経営者の力が強く、自らの襟を正し、成果への責任の取り方を外部にオープンにできる企業に変わるにはまだまだ抵抗勢力が多く存在している。社外取締役や指名委員会、報酬委員会が、こうした経営レベルの成果主義をどこまで徹底させることができるかが、経営トップ変革のカギを握ることになる。
問題は、こうした成果主義をめぐる誤解や誤算が、個人の感情を萎縮させ、企業と個人との関係に大きな亀裂を生み出してしまったことにある。
まず、成果すなわち数値業績であるという短絡的な思考は、社員から自分たちの価値を考え抜く力を奪ってしまった。顧客や市場の変化が激しい企業では特に、現場で顧客と接している人たちが顧客を感じ取り、顧客と対話し、顧客が求めている本質的な価値を見抜いて商品やサービス自体を変革していくことが求められている。しかし、数値業績への過度のドライブは、社員が顧客を感じる力を鈍らせ、自分たちが提供している本質的な価値を考える力を奪った。業績悪化から立ち直れない企業の多くに、この顧客の視点で自分たちの価値を考え抜く力の弱さ、欠如を感じる。
さらに、個人への成果主義の徹底は、個人の感情にある種の防御壁を作り出した。自分を守るために、実現可能な範囲に自らを閉じ込める賢さを身につけることで、自ら状況を変える、殻を破る感情を押さえ込んでしまった。おそらく自らリスクを取って状況を変えられる人材はもともとそう多くはないであろう。しかし、私が以前実施した調査(※)では、企業の中核を担う企画創造型人材においてさえ、「自分でやりたい仕事を自分で決め、自律性が高い」ことを働く上で重視する意識が低下傾向を示していた。本当は自ら殻を破る力を持っていた人材を、リスクのない場所、成果を出せる場所へと閉じ込めてしまってはいないだろうか。
もう一つは、個人と企業との関係である。個人への成果主義を徹底しておきながら、本来真っ先に成果主義を徹底すべき経営トップ層が後回しでは、社員は企業そのものを信頼できない。さらに、個人主義の徹底が、職場の中でも無益な競争意識を作り出し、本来協力して営業する、あるいは仕事をつなぐべきところにつながないということが平気で起きてしまう。企業によっては厳しい成果主義で人材を頻繁に入れ替え、気がつくと隣の部署と協力しようにも誰に相談して良いかすらわからない。いわば信頼の低下、関係の希薄化が起きているのである。
こうした、顧客への本質的価値を追求する力の低下、チャレンジする感情の萎縮化、企業への信頼の低下と関係の希薄化という問題は、変革の主体となるリーダーを生み出しにくくしたとともに、社員一人ひとりが自分の存在価値を実感する機会を著しく減少させてしまった。自分が顧客に対して出している価値を見失い、自分自身の存在を高める意識を弱め、お互いに認め合い、必要とし合う関係が減っていく中で、自分という存在の価値がわからないまま、日々の仕事に忙殺され、いつの間にか保身の行動を取り続けている人間に変わってしまった人を多く作り出してはいないだろうか。
おそらく、人事担当の役員クラスの人から見ると、自分の会社はそこまでひどくないと言う人も多いと思う。目標の設定は結果だけでなく、そのプロセスを評価しろと言っているし、個人の目標設定の前に、組織目標を設定している。役員についても全社業績に連動して報酬は変わる仕組みになっており、責任も明確である。社員の活力が低下しているのは、業績が上がらないからで、業績さえ上がれば社員の意欲も変わるはずだ、と。
しかし、今一度、社内を見渡して欲しい。本当に社員は萎縮していないか、被害者意識をもっていないか、責任回避して、安易なところに逃げ込んでいないか、自分という存在に、企業そのものに誇りを持てているか。このままの状況で、次の世代を担う変革リーダーは生まれてくるのか。
実は、上記のような社員の萎縮化は、成果主義だけによって引き起こされているわけではない。成果主義を標榜したが、実際には年功的な運用が維持され、成果を出しても変わらないという無力感を植え付けてしまった企業、あるいは会社から改革ビジョンを示すことなく、リストラや賃下げが断続的に続き、会社への信頼が完全に崩壊してしまった企業でも、社員の萎縮化、企業や仕事へのコミットメントの低下が起こっている。
次のデータ(図1)を見て欲しい。
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図1/社員の企業へのコミットメント度合い |
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International Survey Research(2002.9)によると、主要10ヵ国の大企業40社36万人に対して実施した調査において、日本は社員の企業に対するコミットメント度合い(ここでは、愛社精神に近いもの)で最下位となった。「今の組織にこのままいたいか」「他の人にも良い職場だと勧めるか」などの質問を得点化したもので、おそらくバブル期までの日本企業においては、考えられない結果であろう。さらにこの調査では、コミットメントの高い企業と低い企業との間で利益がどう変化しているかを調査している。コミットメントの高い企業では3年間で純利益が2.06%上昇しているのに対して、コミットメントの低い企業では1.38%低下している。正確に言えば、コミットメントが低いから利益が低下したのか、利益が低いからコミットメントが低下したのかはわからないが、何らかの相関があるとは言えそうだ。
おそらく今、多くの日本企業で起こっているのは、社員のコミットメント・パワーの低下ではないだろうか。NHKの「プロジェクトX」ではないが、日本企業の強みはいわゆる天才ではない社員たちが試行錯誤しながら、目指していたものを粘り強く実現していく力にあったと思われる。この一緒に考え、チームとして粘り強くやり続ける力が、短期的な収益志向や個人への過度の成果追求を通じて弱められ、日本企業の再生にとって、大きな障害になっているのではないだろうか。
こう見てくると、成果主義の次は、コミットメント主義であると言いたくなるし、個人的にはコミットメント再生が日本企業の緊急かつ重要なテーマであると考えている。しかし、果たしてコミットメント主義なるものを標榜すれば良いのだろうか。私はそうは思わない。私はそういう見方自体が企業経営の再生を遅らせている要因なのではないかと考えている。すなわち、成果や能力、コミットメントといった、成果を生み出すプロセスの構成要素を断片的に取り上げて、それを主義として主張することが、誤った解釈を生み出してしまう原因になっているのである。
そもそも、企業も個人も何らかのアウトプットを生み出す存在である。そのアウトプットの質が高ければ、顧客や市場から受け入れられ、リターンを得られる。そのアウトプットそのものに着目することで、最終的に生み出すものへの意欲や責任を高めようとするのが、成果主義の基本思想の中にある。しかし問題は、そのアウトプットの質や量を継続的に高めるメカニズムが、併せて提示されているのかということである。アウトプットに着目しているだけでは、当然成果は高まらない。
企業のアウトプット、すなわちパフォーマンスは、コンピテンシー(行動に変える力)、コミットメント(行動の焦点化)、コンビネーション(行動の編集、組み替え)の三つの要素の掛け算で決まると考えている。
パフォーマンスとは、その企業が生み出していく本源的価値である。すなわち、誰に対してどのようなベネフィットを提供するのかを決めることだ。そのベネフィット、本源的価値の提供への対価が収益であり、その収益の拡大による企業価値の向上が株主価値につながるものである。したがって、成果を定義する際には、まず自分たちが提供する本源的価値を定義しなければならない。
その提供する価値が決まると、三つの要素を組み合わせて、その価値の創出量と質の拡大を目指していくことになる。その第一の要素が、コンピテンシーである。コンピテンシーについても多様な解釈がなされているが、端的に言えば潜在能力ではなく行動として表出させる力である。本源的価値を創出するために、個々人がどのような行動する力をつけていけば良いかを定義し、場をデザインすることでその開発を促進していく。
そうした個々人の行動する力を開発すると同時に、その個々人の力を結集することが必要になる。それがコミットメントである。本源的な価値を生み出すための最適なコミットメント単位を設計し、その中でメンバーを結合する共通因子を定義し、自らが主体的に関わりたいという意欲と行動を引き出す仕掛けを創り出す。要するに、何かに向けて、皆がのめり込んでいく状態を創り出すということである。ただし、個人のやる気やモチベーションといった内発的動機よりも、実際に行動としての関わり方に注目することが必要である。メンバー間の関係性をマネジメントしながら、成果に向けて最大のパワーを生み出せるように、焦点を合わせていく。
さらにもう一つ、重要な要素がコンビネーションである。こうしたコミットメント単位を意図的に組み替えたり、コミットメント単位間の動きを結合させたりすることで、最終的に生み出していく本源的価値の創造プロセスを最適化していく。チームリーダーの登用や交替の仕組み、メンバー編成の仕組み、業務や組織の連鎖の仕組みなどを構築し、最適な結合を自ら組み替えながら、進化する仕組みを創り出していく。
組織・人材マネジメントとは、まさにこの三つの変数をマネジメントしながら、目的関数であるパフォーマンスを最大化することであると考える。それぞれの構成要素、説明変数のみを取り上げても、パフォーマンスを最大化できないし、逆にパフォーマンスに着目していても、そのパフォーマンスを高める方策は見えてこない。
このように考えてくると、成果主義や先ほど提示したコミットメント主義なるものの共通の問題点が見えてくる。それは、本来、一連の流れをデザインし、一つのメカニズムとして語るべきものを、個々の要素に分断して、それを追求しさえすれば全体成果が上がるかのようにとらえている点である。成果についても、成果を生み出すメカニズムなしに、いくら成果主義の追求だと声高に叫んでも、実際に生み出される成果を革新させることはできない。むしろ考えるべきは、こうした成果を生み出すメカニズム全体を貫く、軸となる「主義」が何かということである。
そもそも「主義」とは、行動に影響を与える強い信念のことである。換言すると、社員の行動の仕方を規定する「こだわり」を決めることである。その「こだわり」なるものが、企業活動の中のあらゆる局面に埋め込まれて初めて、主義としての影響力を発する。そのためには、パフォーマンスを生み出す、それぞれの構成要素を貫くような「主義」を定義する必要がある。
例えば、ベネッセコーポレーションはその典型企業であろう。社名そのものの意味でもある「よく生きる」というある種の「主義」を、事業面からも人材マネジメント面からも追求している。1998年、それまでの通信教育事業、文教事業といった製品別事業部制を廃止して、「子供と学生」「学校の先生」「女性と家族」「シニア」といった顧客別カンパニー制に組み替えた。「よく生きる」ということを社員が考え抜き、コミットするためには、誰に対してどういう価値を提供するのかを絶えず考えられるようにすべきだと考えたからである。さらに、顧客を良く知るための、顧客を考え抜くためのマーケティングの仕組みや自ら顧客調査する取り組みを奨励することで、徹底して顧客と対話するコンピテンシーを開発している。さらに、社員自らが「よく生きる」ために主体的に考えることを促進するために、青紙制度という仕事選択の仕組みを1995年から導入している。さらに自己啓発支援のための能力開発ポイント制や育児や介護に関わる人たちをバックアップする仕組みを整え、より良く生きるための自分づくり、企業との関係のあり方も提示している。
こうした仕組みを通じて、自らが自分の生き方、顧客の生き方を考える力をつけ、行動する仕掛けを構築した上で、管理職については特に、徹底した実力主義、成果に基づく報酬も行っている。事業プランで仮年俸を設定して、その達成度およびプロセスを成果として評価し、年度末に確定年俸が決まり、翌年の賞与で加減される。ここにもまず、誰に対して、何をするかを重視する考え方が貫かれている。
主義と言わなくても、何らかのこだわりが事業や組織づくり、人づくりのあらゆるところに徹底している企業はまだほかにもある。重要なのは、その主義と称して追求するものが、社員の行動の拠りどころとなるかどうかである。成果主義でも、実力主義でも、役割主義でも、それが社員の行動の拠りどころになり、そこに込められたメッセージがその企業の継続的な進化のメカニズムになるのであれば、それでもかまわない。ただし、世の中の潮流に流されて、安易に成果主義という言葉を使ってみたり、欧米のツールや仕組みをそのまま持ち込んでくれば、自分たちの経営のレベルが上がるなどとは、考えないで欲しい。むしろ、自分たちらしい「独自の主義」を見つけ出し、あらゆる組織づくり、人づくりの中に一貫したメッセージとして埋め込んで欲しい。そうすることによって、社員は自らの企業の存在価値を改めて認識し、自分自身の存在価値をその組織の中に再び見出すことができるようになるのではないだろうか。
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(※)高橋克徳(2001.4)「人材活力再生へのマネジメント革新――社員の主体的行動を創出する『志本主義』経営」『知的資産創造』