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【巻頭言】 |
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稼ぐチームのレシピについて
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キャメルヤマモト |
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キャメルヤマモト著『稼ぐチームのレシピ』(日本経済新聞社) |
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『稼ぐチームのレシピ』というチーム論を今年の1月に出版した(2004年1月、日本経済新聞社)。この本の元ネタは、ワイアットレビューで書いてきたことなので、ちょっと裏話を書かせていただく(ワイアットレビュー20号の「人材流の均衡モデル」で、本で取り上げる「仲間チーム」と「アメーバチーム」のさわりを書いた。23号の「まずチームから始めよ:チームアプローチ入門」は、本書の第一部の原型となる四つのチームタイプの話だ。24号の「成果主義からAAAモデルへ」では本書の第二部の原型となる「価値、人材、動き」について書いた)。といっても、裏話というのはこのことではなくて、本を書く人のほとんどが陥るだろうと私が想像している「病気(執筆動機)と治療(執筆行為と内容)と再発(次への動機)」についてである。本号のテーマは成長だから、せめて「成長痛」と言いたいところだが、単なる病気のお話である。
私がかなり長期にわたって患っていたのは「タイプ論」病である。今までいろんな「タイプ論」病にかかっている。おそらくココロのどこかに不安があって、自分も含めて、世の中のことを割り切って整理してしまいたい気持ちが起きたときにこの病にかかる。いや、そういう気持ちが起きたときに、美しい「タイプ論」が私の前に現れて、見とれているうちに気がついたら同棲している。しかし、「タイプ論」ずれしている私は、3カ月もすれば、美しいタイプ論の化粧が取れた素顔に幻滅する。美しいタイプ論は、私をもあるタイプに分類しようとするから閉口する。でも懲りずに、また新しいタイプ論の美しさにとらわれる。
タイプ論のうち、同棲状態までいってしまった遍歴を書き出すと、野口整体の体壁論(12タイプ)、占星術(12タイプ)、マイヤブリッグス(8タイプ、16タイプ)、エニアグラム(9タイプ)などの個人ものと、「機械的組織 対 有機的組織」「デジタル組織 対 アナログ組織」「ネットワーク組織、プロセス組織、機能組織、事業組織」「ギリシアの四つの神様になぞらえた組織論」などの組織ものがある。そういえば、ワトソンワイアットでも、おなじみの「起業家人材、プロフェッショナル人材、専門家人材、マネジャー人材」とか、「仕組み創造組織 対 アメーバ増殖組織」などがはやっていて、これは仕事という名目で白昼堂々とおつきあいできて、明るい幸福感を味わった。
ところが、2、3年前に、すこぶる具合の悪いことに気づいた。美しい「タイプ論」とちょっと相性の悪い相手が、同じキャメル小屋で暮らしていることに気づいた。その相手とは「アセスメント」である。
前の会社から引き続き同僚の川上さんに、アセスメントの手ほどきを受けてから7、8年たつ。アセスメントでは、仕事という極めて限定された場面に限って「人間の思考・行動特性」を分析する。その鉄則は、一人ずつユニークな思考・行動特性を明らかにすることだと私は考える。そこには、「タイプ」などあってはならない。タイプにあてはめたアセスメントほどつまらないものはない。「その人だけにあてはまる」コンセプトをなんとか描こうと毎回悪戦苦闘している。
人をみるという意味で同じ宗教に属する「タイプ論」と「アセスメント」はいわば異「端」の関係だ。異「教徒」同士は一緒に暮らすことができるが、異「端」同士は暮らせない。私が両者と同棲を続けるのは政治学的に無理がある。
ちょっと待てよ。どちらと別れるかを決める前に、もう少し両者の関係を考えてみよう。ものの本によれば、この手の手法は、大きく二つに分かれる(またもやタイプ論か?)。一つは、箱型タイプ論(「類型論」と呼ばれる)で、世の中の事象を、いくつかの分類箱に振り分けるものだ。私の本でいえば第一部がそれで、世の中のチームは、乱暴にも、「仲間チーム」「軍隊チーム」「開発チーム」「アメーバチーム」の四つに振り分けられる。もう一つは、「座標軸論(特性論と呼ばれる)」で、全体のタイプがどうかということではなくて、あるチームについて、価値という「特性」でみるとこういう傾向で、人材という「特性」でみるとこういう傾向で、「動き」という特性でみるとこんな傾向だ、というふうに因数分解的にとらえる(本の第二部はこの手法によっている)。
「座標軸、特性論」を、各タイプの説明に使うのであれば、両者は仲良く継続できる(よくある2×2の座標軸で四つの象限(=タイプ)に分ける分類チャートは仲良しの例だ)。しかし、アセスメントのように、タイプを拒否して、個性的な特性を描こうとすると、両者の相性は崩れる。そのとたん、両方といい関係の私は、「箱型タイプ論」と「座標軸特性論」の間を行き来する「躁鬱症状」に陥る。
やむなく私は、新しい病気の治療のために、両者と仲良く同棲できるかまじめに考え始めた。そしてついに本まで書いてしまった(『稼ぐチームのレシピ』。もっとうまい宣伝の仕方があるのだろうが、こんなふうにしか話を展開できないのはやはり病気なのか)。
まず、第一部では、「タイプ論」への忠誠を証明すべく、愚直に四つのチームタイプ(「和・仲間チーム」「仕組み・軍隊チーム」「精鋭・開発チーム」「変幻・アメーバチーム」)を記述した。世の中のチームは、すべて四つのどれかだ、みたいな気持ちで書いている。そして読者は、自分の身近なチームやひいきのスポーツのチームなどについて、どれか、と考える。ただ、さすがにそれでは単純すぎるので、タイプ論オタクの常套手段として、中間とか、組み合わせなどでかなりのバリエーションを示した。
他方、第二部では、「座標軸・特性」論に媚を売り、どんなチームも三つの特性(座標軸)から構成されるとした。価値、人材、プロセス(動き)という三つの特性である。あらゆるチームは、三つの特性を異なる強度とバランスでもつ。さて、ここで私には選択肢があった。座標軸論を展開する上で、タイプ論と「調和的」にするか、それともタイプ論と「対抗的」にするかである。まずは、タイプ論と仲良くさせるべく、四つのチームタイプを、三つの座標軸を使って説明しなおした。結構うまくいきそう、と思った次の瞬間、筆は、タイプ論を裏切り始めた。任意のチームは、各特性について、特有の強度をもちえる。三つの特性それぞれについての異なる強度の組み合わせによって、チームはユニークな存在として描かれる(3本の座標軸をもった座標上で、固有の点(マトリックス)として描かれる)。四つのチームタイプなど、そのごく特殊な例にすぎない(「タイプ論」はこけにされている)。さらに、三つの特性それぞれについても、いろんなバリエーションがあるとまで言ってしまう。たとえば、価値のところのとらえ方をどうするか、ここはかなりのバリエーションがある。また、人材について六つの標準的な人材モデルを示したが、これとてもっといろんなバリエーションがありえる。さらに、プロセス・動きについてもいくつか示したがこれもいろんなとらえ方がある。それぞれについて、いくつかの変数を選び取るという自由度を認めてしまう(ひょっとすると私の中のどうしようもない分散・拡散傾向を押さえるものとしてタイプ論があるのかもしれない)。もちろんこのように描かれたチームの集合を考えて、集合が一つのタイプだと構成する道は残されている。
でも、本を書き終えたあたりから、自分の中で微妙な変化が起き始めた。一つは、タイプ論で美しく描いた「精鋭・開発チーム」や「アメーバチーム」や「軍隊チーム」などのあばたが目ざわりになりだした。その中で、ややネガティブに描いた「仲間チーム」にはかえって愛着が湧いてきた。他方で、タイプ論よりも、座標軸・特性論のほうに傾斜していった。この二つの流れがミックスされた結果どうなったか。私はまた新しい病気を患うことになった。今度の病は、「仕事プロセス論」である。これは、本の中の第三の特性論の「プロセスと動き」の延長線上にある。ちょっと風邪をひいたぐらいだったが、折しも、あるプロジェクトで必要に迫られたこともあって、本格的な病になる気配である。
なぜ今さら、プロセスに注目しだしたか。第一の理由は、「企業活動は、結局、諸「情報」が諸「媒体」に転写されていく「プロセス」である(タイプ病の病歴をもつ者はすぐ断定する。依然病気は健在)。いわゆる情報産業はもちろん、製造業でも、ものの構想が設計図になり、その設計図が、具体的な素材という媒体において表現されるプロセスだ。それを作ろうという開発者の頭という媒体に生じた情報が、設計者、製造者、マーケッター、営業など様々な人の頭や媒体(紙、CAD、材料、広告媒体)を通じて連結されていき、最後に、顧客の頭脳や身体や感覚という媒体にまで転写される。それを顧客が価値だと受け止める、そういう一連のプロセスが企業活動である。プロセスに注目するかのもう一つの理由は、仲間チームがいとおしくなってきたことと関連している。「日本の強みの源泉は、『現場』にある。そして、生産現場や営業現場などの、現場の強みは、『顧客起点の業務プロセス/work process』と『社員起点の人材プロセス/people process』に化体している」。さて、業務についても人についても、それぞれを要素に因数分解すると、「インプット、スループット、アウトプット」の入れ子構造になっているのは自明だろう。この構造的相似を受けて、ワークについての調査・分析、人についての調査・分析なども、共通の根っこのフォーマットを用いる。そういうメソッドレベルまで両者の双子関係を貫徹する。
他方、マーケティングや研究開発などになると、非定型的な要素が大きく、競争力の源泉がプロセスよりも、そこにおける思考、行動といった、もっと人材的な側面が重要になる。特に、業務プロセスには事前に落とせないが、どういう人材なら、予想される状況において必要な業務プロセスを作れるか、という場面で、「人材像」が主役を演じる(ここでタイプ論が部分的に復活)。そこで、プロセス論と並んで、「人材像=コンピテンシー(人材構造論)」が必要となる。
さらに、病は高じて、うわごとが続く。人材像は、一方で、時間言語(プロセス言語)で語ることができる。その人材が過去、どういう業務プロセス・行動を演じたかを描写するわけだ。他方で、異なる状況における、その人の「時間的な行動」を丹念に見ていくと、そういう状況(インプット)でそういう行動(アウトプット)を取らせる、「人材の構造=関数」が見えてくるかもしれない(といっても、それは、脳・神経の解明が今よりずっと進むまでは、あくまで仮説であり、ブラックボックスだ)。そのように押さえると、「過去の思考・行動データ」→「その人材のコンピテンシー関数の推定」→「新しい状況(役割)にその人材を配置」→「実際にでてきた思考・行動」=検証、というサイクルを回し続けるしかない、ということになる(ブラックボックスは永久にブラックボックスにとどまる)。ここで、「見える」のは、過去・現在のプロセス・行動である。そういう過去の結果をもとに、「非」時間的な人材像モデル(構造・関数)を推定するという仕掛けである。果たしてうまくいくだろうか。うまくいけば私の病も治るはずだが。
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