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【巻頭言】 |
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心理学ゼミナール
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川上 真史 |
心理学の世界には、禁断の実験というものが数多くある。実験をすることで被験者を危険にさらすような実験だ。例えば無感覚実験というものがある。人間に全く刺激を与えないとどうなるかというものだ。真っ暗闇の防音室に人間を閉じ込めて、感覚的な刺激をなくすのだ。そうすると半日くらいで幻覚や幻聴の症状が出てき始め、1日も耐えられるものではない。さらに2、3日くらいその状態に置くと、どんなつまらない情報でも信じ込むようになってしまう。全く感覚刺激がないと、どんな刺激でも受け入れようとしてしまうのだ(独裁国家では、同じような手法を取り入れて、国民を洗脳しているのかもしれない。また、かなり前の話だが、視覚、聴覚、嗅覚以外にも、重力の感覚をなくそうとして、完全防音・遮光スーツを着せて、被験者をプールに入れたら、空気を送るパイプが外れて窒息死しそうになるという事件があったらしい)。
当然、このような実験は被験者に極度な負担をかけ、その後も障害が残る可能性があるため、近年では、まず行われていない。
この無感覚実験と同じく危険なものとして、「囚人と看守の実験」というものがある。数十名の被験者を集めて「今から刑務所の環境改善の研究をする。そのために、実験室内に仮想の刑務所を作る」ということを被験者に告げる。そのうえで、一部の被験者には看守役に、残りの人には囚人役になってもらい、仮想の刑務所の中で、それぞれの役割を演じてもらうのだ。これを1週間ほど続けていると、囚人役になった人は囚人らしく、看守役は看守らしくなってくる。囚人役はだんだんと無気力になり、看守の言うことには逆らわなくなってくる。看守役は、エラそうに振る舞うようになり、サディスティックで傲慢になる。与えられた役割を演じているうちに、性格までもが徐々に役割に近づいてくるのだ。これを役割性格という。
自分のことを一度振り返っていただきたい。このような役割性格に基づいて動いている部分があまりにも多く驚くはずだ。我々のようなコンサルタントでも、役割性格で動いている人はたくさんいる。コンサルタントとは「知的好奇心にあふれ、テレビではニュースショーか60年代の映画しか見ない。趣味はクラシック音楽で、スポーツも愛する。スーツはダブルで、ストライプのシャツにサスペンダー。夜には、居酒屋ではなくワインバーでワインのウンチクを語り合う」、そのようなスタイルを延々と続けている人がいる。誰も決めたわけではないのだが、そもそもコンサルタントとはそのようなものだというイメージをつくりあげ、それを役割として自動的に演じてしまうのだ。
これはどのような職業でもそうだ。銀行員は何となく銀行員的な行動を取り、広告代理店はいかにも代理店という雰囲気を演じる。業界人は夜でも「おはよう」と挨拶し、すべての人を「〜ちゃん」呼ばわりする。職業だけではない。役職や職種についても役割性格が出てしまう。新入社員は新入社員っぽい服装を着て、初々しい話し方をする。数カ月前までは、学生としてそのような雰囲気は全くなかったはずなのに、新入社員になると全員同じような行動を演じ始めるのだ。おそらくそう演じるように新入社員研修で教えられるのだろう。新入社員研修とは「社会人」という役割をどう演じればよいかを徹底して叩き込む場であるし、その社会人としての役割をきちんと演じられるようになれば、「自分も一人前のビジネスパーソンだ」と感じてしまうのである。
また、役員になると、何となく話し方や態度が変わってくる人もいる。管理職になったら、急に部下を集めて飲み会を開こうとする。このように、企業の中では、多くの人達が自分の意思ではなく、何となく「自分の役割はこうだ」という固定的なイメージを決め、それを演じようとしているのだ。しかも、いつの間にか、それが自分の行動や思考を支配し始め、その役割性格から離れられなくなってしまうのだ。
従来は役割性格で行動することには何も問題はなかった。むしろビジネスパーソンとしての役割性格を完全に演じきれる人であればあるほど、社会人としては優秀とされてきた。それは、日本という閉じた社会の中だけでビジネスを回していたからである。
かつ、役割性格を演じていると「無難」であるのも間違いない。周囲の人たちも、「この役割の人は、一般的にはこう動くはずだ」と期待しているものなので、その通りに動けば、決して文句やクレームは出てこないのである。確かに、阪神の法被を着てメガホンを振り回しているコンサルタントだと、仕事を発注するときに躊躇するかもしれない。やはり、いかにもコンサルタントらしい立ち居振る舞いの人のほうが、どこか無難な気がして、そちらを選ぶ場合も多いだろう。その点では、役割性格というのは重要であるのは間違いなかった。
しかし、これはあくまでも「今までの話」となりつつある。国際競争になってきたとき、今までの「この役割の人はこう動くはずだ」というものが通用しなくなってきているのだ。
以前、ラスベガスのディナーショーを見に行ったことがある。そこに来ている人たちは、いかにもラスベガスらしく、ラフではあるがちょっとお洒落な服装で楽しんでいた。ところが、その中に、日本人の新婚旅行客らしい3組の夫婦が座っていた。その3組とも男性は全員ビジネススーツを着て見ており、そのテーブルだけ、非常に浮き上がっていて、大変な違和感を醸し出していた。周囲の人たちも「なぜラスベガスのショーにビジネスの格好をしているのか?」という目で見ている。
このようなことがビジネスの世界で起こっているのだ。彼らにすると「ディナーを食べるときはスーツを着ることが普通だ」と何気なく考えていて、その通りに役割を遂行しただけだ。確かに日本ではどんな高級レストランでもスーツさえ着ていれば、誰からも文句を言われない。しかし国際的な標準では、スーツとはビジネスのときにだけ着るものであり、ディナーショーはビジネスの世界ではないのだ。オペラでも、海外ではビジネススーツを着てくる人はいないし、下手をすると入場を断られる場合もある。
ビジネスの世界でもそうなのだ。今まで日本企業で共通する役割性格をその通りに演じていれば問題なかった。しかし、グローバルな競争となったとき、その役割性格は当たり前のことではなくなってしまうのである。今まで「これが社会人の常識だ」と考えていたことを、その通りにやっても競争には勝てないのだ。
私は、日本人が演じている役割性格は間違っていると言う気はない。ましてや人間としての常識を破るようなことをしなければならないと言う気もない。しかし、今まで「常識」だと考えてきたことは、単に「役割性格」というものにしか過ぎないのだ。それほどこだわることでもないはずだ。例えば茶道のように数百年にわたって延々と受け継がれてきた「役割性格」であれば、それは一つの様式美であり、伝統美となり、これからも永遠に残すべきものだと思う。ところが、ビジネスでの役割性格は、日本の中ではせいぜい数十年しか続いていない。様式美と言えるかというとそうでもないだろう(ビジネスマナー初段などという資格もないはずだ)。
これからのビジネスの世界では、K1のようにいろいろな格闘技出身者がある共通ルールで戦うというような状況が起こってくるだろう。そのときに別に日本の常識がおかしいとか間違っているという話は関係ないのである。海外の常識が正しいという話でもない。ただし、自分が今までやってきた格闘技の常識にこだわりつつK1を戦うと、年末の曙のようになってしまう。「自分は相撲出身だ。相撲の常識では、拳であごにパンチを食らわせることはない」と思いつつ、横綱としての役割性格である「がっぷり四つでの寄り」をボブ・サップにしても、それは通用しないだろう。あっと言う間にノックアウトである。
やはり、K1で戦う限り、今まで自分たちがやってきたことのメリットは最大限に活かしつつも、相手のルール、常識を研究し、それに対抗する策を考えて実行しなければ勝てるわけがない。ビジネスにおいても、これからは相撲取りとだけ戦うのではなくなってくるはずだ。曙と同じようにならないためにも、そろそろ準備を始めなければならない。
すでに景気回復の兆しは見えつつある。そのときに、まだ従来通りの役割性格でビジネスを展開していっても、結局また失速してしまうだろう。一人ひとりが役割性格だけで動いている部分、特に深く考えることなく「これが常識だ」と考えている部分を、本当にその通りにやることで、今後とも意味があるのかを見直す時期に来ているだろう。
そのときに、やはりコンピテンシー的な動きが必要となる。コンピテンシーとは「成果につながる能力」と考えればよい。「今出すべき成果とは何か」「その成果を生み出すために、最もよい方法とは何か」を考え、それを実行できる力がコンピテンシーである。これが常識だといつの間にか思い込み、それを条件反射的に実行することを繰り返しているだけでは、ビジネスパーソンとして生き残れないだろう。「これが社会人としての常識だ」と主張しても通用しないはずだ。「役割性格からコンピテンシーへ」、これが、もう一度、日本の競争力を高めるための大きなキーワードとなるだろう。
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