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【巻頭言】 |
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脱・依存
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永田 稔 |
数年来の成果主義ブームのゆり戻しか、ここ最近成果主義に対する反対論が目につくようになっている。「成果主義は虚妄である」「某有名企業が凋落した原因は成果主義の導入である」との論調が蔓延している。その風潮を反映してか、成果主義からの転換を始めている企業もあるようである。
既視感。この種の声は今に始まったことではない。CRM, SCM, ERP……。次から次へと現れる一見新たな経営手法。新たな手法が出るたびに聞こえてくる声。成果主義もこれらと同じような運命をたどるのであろうか?
あるコンセプトがうまく成果を生まない時に見直されるべきは、そのコンセプト自体の適切さとその導入や展開における適切さであろう。この両面を公平に見直すことが必要である。上記した種々のコンセプトと成果主義の類似性。数々のコンセプトが陥った罠。これらを考えると、導入や運営における問題はなかっただろうか?
現在の成果主義への問いかけに欠けているのは、成果主義を虚妄にするのは「何か」という問いかけではないか。成果主義自体は虚妄でも真でもない。ただの概念であろう。虚妄にするのも真にするのもそれを使う主体によるのではないか。すると、考えるべきは、どんな概念をも虚妄にしてしまう主体についてではないだろうか。
成果主義は確かにブームであった。数年の間に日本中の会社がこぞって成果主義人事制度の導入を行った。ブームとは「盲目的追従」の面をもつ。「あの会社のように成果主義を導入すれば、うちの会社も劇的に変わることができる」との盲目的な追従。盲目的になり、変革を成し遂げた会社の取り組みの本質を見失ってはいなかったか? 無思考、思考停止にはなっていなかったか? 当然のことながら、成果主義のあり方は個々の会社により異なる。自らの会社がどのように人材を遇するべきかの哲学、価値観を自ら考えた上での導入・展開であっただろうか?
「盲目的追従」「思考停止」は日本企業に蔓延する病である。企業変革が困難な大きな理由の一つは、組織に蔓延する「思考の停止」状態であり、「盲目的追従」の姿勢である。
例えば、どこかに出来合いのすばらしい答えがあると考える「答えください」症候群の企業がある。一見、常に他の企業が行っていることに注意を向け、積極的に新たな経営コンセプトを学び、取り入れ、改革にまい進して進化し続けているようにみえる企業でも、その根っこは世の中への「盲目的追従」のケースが多い。他者の取り組みを学習するオープンさは評価されるべきであるが、単なる物まねで終わってしまうため、十分に咀嚼されず、本当の改革に至らない。また、市場が構造的に変化し業績にも変化が現れており、事業モデルや組織運営モデルの変革が明らかにもかかわらず、過去のモデルに固執をし、ただ時間ばかりが過ぎていく企業がある。過去の成功や環境に適応し過ぎて新たな姿への変化ができない企業である。その根っこにも、過去の成功や環境での成功に対する「盲目的追従」が存在している。「うちの会社はこれが当たり前」「この業界はこういうもの」「お客さんはこれを望んでいる」。社内に蔓延する常識、常識が繰り返されることによるルーティン化。口に出していないまでも、今日は昨日の延長にあるとの思いで日々の仕事をこなしている。昨日のやり方を何の疑問もなく追従している。
この両者は外見は異なるものの、実は同じ病を抱えている。
これらの盲目的追従の姿勢は、ある特定の価値観や価値体系への「依存」である。ブームを追いかける姿勢は、世の中の流行や他の企業の成功という価値体系への依存であり、変革が困難な企業は過去や内部の価値体系への郷愁を断ち切れずにいる。いずれにしても、自らが新たな価値体系を作り上げるというのでなく、既存の価値体系に依存する姿勢は共通であり、この「依存」の姿勢が本質的な進化を妨げる。日本企業が種々のコンセプトの果実を取る、さらに企業進化をなしとげるためには、この盲目的追従の姿勢、依存体質を正さねばならない。
それでは盲目的追従、依存体質はなぜ生まれるのか? 筆者は盲目的追従や依存体質は、人間や組織、社会という存在と密接に結びついたものと考えている。例えば、脳の認知システムは、認知という仕事を効率よくこなすために追従的な類推を働かせる。人間は昨日の自分と今日の自分が同じということで一貫性を保つ。また社会は一定の価値観や体系を作り、人々はそれに無意識的に従うことで社会と個々人の安定を作り上げている。筆者はある種の追従や依存は、社会や個人の同一性や安定を保つために組み込まれた性であろうと考えている。その中でも、会社組織というシステムはその生い立ちから、価値観や価値体系への強制力、ひいては依存を引き起こす力が強い。
組織は、統制のシステムである。ある種の標準化を推し進め、人に標準的に思考すること、行動することを強制するシステムである。そのような行動をとらせることで、組織はその効率性を達成し、組織としての一貫性や効果を高めてきた。このシステムでは、標準化を通して、ある価値体系に人材を当てはめる力、支配する力、従わせる力が働く。すなわち、このような行動をとったら評価します、うちの社員はこのような行動をとるべき、という力が働くのである。一方、個人の側でも「うちの社員」になろうとする力、集団への帰属意識、集団に属することでの自己の存在の確認という力が働く。例えば、集団との同一性を高めるために、個人は自らその集団特有の言語や行動をとるようになるのである。
やっかいなのは、組織がこのような価値体系を作るにあたっては、その根本となる哲学や顧客への存在価値があったにもかかわらず、その根本の部分が忘れられ、表面的な面のみがいまだに強制力をもち続ける点である。つまり、お客さんにわが社はこのような価値を提供する、そのためにわが社の社員はこのように行動すべきだという体系にもかかわらず、表面のみが一種のルーティン・儀式として残り続けるのである。このルーティン、儀式に埋没することが盲目的追従、思考停止を引き起こしていく。
以上のように考えると、思考停止とは、ある一定の環境下やある一定の時点における価値への収束現象であり、社会化・組織化に伴う必然であるとも言える。ただし、収束している過程においても、時は過ぎ環境は変化をし、収束させようとしていた価値は古びつつある。「収益」というものが、効率性とイノベーションから生み出されるものとしたら、企業は収束を追求すると同じく、新たな価値の追求を行わねばならない。
企業において働くべき力学とは、統制と創発、収束と拡散の繰り返し運動であろう。変革とは意図的にこれらの繰り返し運動を引き起こすことで価値の「再思考」を促すものと考えられる。
それでは、再思考、脱・思考停止をどのように行うのか。行うべきは、「依存」対象となる価値の揺さぶり、破壊である。揺さぶり、破壊することにより、収束一方向に進みがちな組織、個人の力の転換を図る必要がある。
この揺さぶり、破壊はどのように行うのか。一つ目はトップによる絶え間ない既存価値への問いかけである。トップ自らが組織や個人に対し、「本当にそれでいいのか」「今のままでいいのか」を問いかけることである。問いかけにより、ルーティン、儀式を壊し、再思考を促すのである。トップがこの問いかけを行うに当たっては、トップの世界観が肝心となる。トップの世界観がその企業と過去の成功体験のみにある限り、上記の問いかけは生まれない。自ら築き上げてきた価値を自ら疑う客観視能力と渇望するほどの更なる成長意欲が必要となる。
二つ目は、意図的な「外部の取り込み」、「交配」である。外部の組織、個人を意図的に内と交わらせることにより、価値観を揺らがせていく、新たな価値を作っていく。内の常識が常識でないこと、外には別の価値があることを外部の組織、個人を通じて分からせていくのである。この活動はトップダウンだけでなく、組織のミドル、ボトムの各所で起こし、組織全体が常に外部の刺激を受けている状態を作り出す必要がある。M&A、外部企業との提携、外部人材の調達がこのための手段となる。
三つ目は、「許容」である。これは企業内部から価値へのチャレンジを行いうる人材を生み出すことにつながる。今までの人事制度は「このように行動すべき、考えるべき」との「統制」に重きが置かれているものが多い。この種の統制は、上記したよう標準化、均質化を進めるフェーズでは力を発揮するが、その反作用として、既存の価値を揺るがせるような人材を許容しない力を発揮する面がある。統制が行き過ぎ、組織としての許容度、ゆとりがなくなっている可能性がある。我々の経験則の中で、従来のビジネスの価値を高める、揺るがせる人材は組織の周辺や外延から現れる、というものがある。これは、統制が行き届かない辺境で、新たな価値観がはぐくまれるということと理解をしている。現在の日本企業に必要なことは、この辺境にも似た「遊び」の部分、価値観を揺るがす「変態」の存在の「許容」ではないかと思う。
改めて問う。思考とは何だろうか。内への客観視と外への視線。強烈な「個」の意識と自ら以外のものに向ける尊厳。思考とはこれら意識の運動の間に現れるきらめきにも似た何かではないだろうか。
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