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【巻頭言】 |
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【心理学ゼミナール】
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川上 真史 |
多くの人たちは、「知識」というものを持ちたがり、それを人に語りたがる。また、知識を吸収することが美徳とされ、「知的好奇心」などという言葉まで作り上げている。確かに勉強や経験を通じて、いろいろなことを知るのは楽しい。多くの知識を持っていれば、判断も正確にできるだろうし、人生も豊かになる。しかし、その「知識」とは一体何かについての正確な知識を持つことも重要である。
心理学では、知識を大きく2種類に分類する。それが「宣言的知識」と「操作的知識」なのである。宣言的知識とは、「そもそもそれは何であるのか」ということを明確に宣言する知覚的な知識であり、操作的知識とは「どうすればよいのか」に関する行動的な知識である。
例えば、今年度、記録的な上陸数で多くの被害が出た台風をもとに説明すると、「台風とは、熱帯で発生した低気圧のうち北西太平洋で発達し、中心付近の最大風速が17m/s以上になったもののことを言う」というのは宣言的知識である。ところが、「台風が来るときには、家の外回りを点検し修理の必要がないかを確認したうえで、飛びそうなものは、すべて針金などで固定するか家屋内に取り入れておく。また、排水溝のつまりがないかを確認し、家屋周辺の排水がスムーズにできるようにしておく。台風が接近したら、外出は控え、常にテレビやラジオで気象情報を収集し、緊急事態に備える。これらが、台風が来るときの心構えである」というものが操作的知識である。
さて、どちらの知識のほうが実際に役立つであろうか。当然、操作的知識なのである。台風が接近しているときに、「今回の低気圧は、太平洋の北西側を進行しつつ、960hPaまで発達し、最大風速も45メートルとなっているので、台風と呼ぶのにふさわしい」などと言っていても何も意味がない。至急、操作的知識をフル活用し、それを実行に移さなければ身の危険さえ出てくる。
自分は優秀だと思い込んでいる人の多くは、実は宣言的知識だけしかもっていない。企業においてもそうである。「当社を取り巻く市場環境はこうなっている」「今後の当社が目指すべき方向はこれである」といった宣言的知識だけを振りかざし、それらをどうやったら実現できるのかについての操作的知識は全くない。それでも、まだ「目指すべき方向性は」というような、前向きな宣言的知識であればましである。「当社の問題点は人材不足にある」「このようなルールがあるので、それはできない」など、否定的なものや、行動化しないような方向性の宣言ばかりをする人は、企業の発展を完全に阻害する。ところが、意外に、このような宣言をする人が、企業の中で重要なポジションにいて、その人を論破し説得することに部下や関係部署が全エネルギーを注いでいる。
なぜ、そのような人が多いのか。宣言的知識のほうが、以下のような理由で、楽に自分の優秀さをアピールできるからである。
@自分で作り出すものではなく、すでに存在するものである。
A宣言的知識に従えば、失敗しても責任をとらなくてよい。
B本や雑誌、ネットなどで簡単に得られる。
C他者の知らない宣言的知識を語ると気持ちがよい。
D相手よりも多くの宣言的知識を持っていれば尊敬される。
つまり、宣言的知識とは、いわゆる「薀蓄」なのである。一般に定義されているものなので、自分でそれ以上考える必要がない。しかも、それに従って行動すれば、失敗しても「常識的な方法をとっただけだ」と言い訳もできる。かつ、しゃべっていて気持ちよく、他者からも尊敬されるとなれば、これほど便利なものはない。
ところが、操作的知識は、そんなに簡単なものではない。ケースバイケースであり、柔軟に切り替えないといけないものだからである。台風の定義は不変であるが、対処方法となると、毎回、違ってくるはずだ。「今回は雨が多そうなのか、風が強そうなのか」、「スピードは速いのか、遅いのか」、「自分の家は山沿いなのか、平地なのか」などの条件によって、どのような対処が必要になるかは全く変わってしまうのである。真剣に考えつづける必要があるうえに、失敗する確率も高く、失敗したら本人の責任とされる。もっと悪いことに、常に変化するものなので、薀蓄として気持ちよく語れるものでもない。
当然、多くの人たちがこれを嫌い、楽に自己アピールできる宣言的知識を選ぼうとする。しかも、一度、その便利さと楽さを覚えてしまうと、その世界だけに安住してしまう。「コンピテンシーの定義とは何か」について、1年以上も議論しつづけ、何の制度改革にも着手していない、などという企業も多いのではないだろうか。これが思考停止を招くのである。
知識というものは思考の材料となるべきである。ただ単に知識をもっているだけでは何も成果につながらない。したがって、単に宣言的知識を豊富に持ち、薀蓄を語っているだけの人は、最初は尊敬されるかも知れないが、すぐに底の浅さを見破られてしまうだろう。ところが、その宣言的知識をもとに思考力を発揮できる人材もいる。この人材がまた「くせもの」なのである。
宣言的知識から導かれる思考は「因果律」的なものが多い。「このような結果になったのは、これが原因である」というようなものである。当然、原因を探り、特定することは非常に大切である。ところが、ここにひとつの混乱があるように思う。つまり、化学的、物理的反応についてであれば、因果律は明確な意味を持つ(自然科学の世界でも、量子論にまで踏み込めば、話は別かもしれないが、少なくとも、太陽系の他の惑星に探索機を飛ばし、観測するという壮大なプロジェクトでも、因果律的な世界だけで解決できるはずだ)。しかし、人間の意志、心が絡む問題に、明確な因果律はあるだろうか。例えば、今の成果主義に関する混乱も、人間について、因果律的に考えすぎることからきているように思う。つまり、多くの企業で、成果主義を導入した理由は、「今なぜ業績が悪いのか、それは社員が効率的に働かないからである」「では、社員が効率的に働かない原因はどこにあるか、それは処遇があまいからである」「処遇があまいことの原因はどこにあるか、成果によって給与に差がつかないからである」となっている。それで、「もっと給与差を厳しくつけることが正しい」という結論を導くのだが、人間とは、このような単純な因果律によって動いているものではないはずだ。
さらには、上司が、このような因果律的思考を行う傾向があり、部下に、その思考を支援する宣言的知識を見つけ出すことに長けた人がいるという組み合わせが最悪である。「今現在、給与差を大きくつける成果主義を導入している企業は60%以上あります」「競合のA社も来期から成果主義の導入を予定しています」などという情報を部下から聞こうものなら、「やっぱりそうか」となり、即座に「自分の考えは間違いがなかった」と思うわけである。
このような現象を「論理的誤謬」と呼ぶ。因果律的な考え方を深めていくうちに、どこかにゆがみや推測が入っていても気づかず、論理的に間違いないと思い込み、結局は間違った判断をしてしまう問題である。
一方で、操作的な知識は、因果的な考えにつながらないケースが多い。どちらかというと、「これが目的である」「では、その目的を達成するために最も効果的な手段は何か」というように、目的―手段の連鎖で考えることにつながる。しかも、目的が明確なので、いったん考えた手段が目的達成につながらなければ、すぐに修正しようとする。
例えば成果主義にしてもそうである。「社員がもっと効率よく働くようにするにはどうすればよいか、まず給与に差をつけるとプレッシャーがかかり、効率よく働くかも知れない」となり、実際にやってみて思ったほど効果がなければ、「他にどのような手段が考えられるだろうか」となるわけである。さらに、そこで得た経験が、また新たな操作的知識として蓄積されていく。「この操作的知識は、どのような目的に対し、どんな状況で機能するか」というように。当然、企業ではこのような知識や思考力のほうが有効であるのは間違いない。
誤解のないようにお願いしたいのは、宣言的知識は全く意味がなく、因果律的な思考は不要なものだと言う気はない。例えば、大学の機能は、宣言的知識の正確性を検証し、新たなる宣言的知識を打ち立てていくことがメインであり、それが世の中のためになっているのも間違いない(大学自体も最近では操作的知識の重要性が叫ばれているが)。しかし、企業という、人を介しての活動を行っているところでは、宣言的知識の有効性は大きく下がり、操作的知識の重要性が大きく増す。結果の原因を定義づけていても何も意味がない。もう一度、各人が、自分の思考パターン、知識への指向性を振り返り、それを修正することが必要だろう。
日本の教育では、どちらかというと宣言的知識の習得にウエイトがかかっているような気がする。子供のころから、その習性が身につくと、どうしても宣言的知識の偏重傾向が出てしまい、操作的知識を駆使する人のほうが、何となく下位にいるような錯覚を起こしてしまう。企業では、「その結果の原因がわかる人」ではなく、「その目的を最も効果的な手段で達成できる人」のほうがハイパフォーマーであるという当たり前のことを、もう一度考えてみる必要があるだろう。
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