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【巻頭言】 |
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分母としての日本
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河合 太介 |
「恥の文化」を指摘した『菊と刀』をはじめとして、日本の本質については多くが語られてきた。しかし、おそらくは、顔は一つではなく、切り口によって、その本質は多様な表情を見せる。そして、それはいずれか一つが真理なのではなく、すべてが真理なのであり、その真理の集合体こそが日本なのであろう。
例えば、ある一流のクリエイターから聞いた話では、日本の本質は二次元のデザイン力だという。一方、ヨーロッパの本質は三次元らしい。
例えば世界中の人が美しいと感じる着物は平面で表現される二次元の世界である。
また、漢字という文字を輸入し、それを崩して平仮名、カタカナを創造する。現代でもメル文字、女子高生文字等、年少者であってもその創造を二次元の中に駆使する力をもっている。
すっかりお家芸となった漫画やアニメーションもしかり。
一方、ヨーロッパはギリシア彫刻が著名なクリエーションのスタートであったように、三次元の創造力に優れている。
着物は世界に通じる服なのに、洋服のデザインはどうしてもイタリアやフランスに勝てない。
車のデザインも、堅実ではあるが、立体的なセクシーな魅力の表現力は及ばない。
葛飾北斎など、絵画で世界的な影響を与えた日本人はいたとしても、彫刻でのそれはあまり知られていない。
これもまた日本の本質であり、日本人がモノを考える、とらえるときに大きな影響を与えているのであろう。
(すべての例え話に共通だが、一部個人で世界的な人はいるかもしれない。しかし、全体的にはどうかという観点で考えてほしい)
「異文化を融合する力」も日本の本質として語られる力である。この力が日本をここまでの国にしたことに異論をはさむ人は少ないであろう。
私はこれをベースにしながら、日本の本質は編集力にあると考えている。異文化を融合するのも編集作業であるし、何かの最初の発想を土台にしてそこから新たなものを生み出すことも編集作業と言える。
こう見たとき、チーム作りも編集と考えることができる。そして、この組織編集のあり方に、日本の組織の強さがあったのではないかと私は考える。
松岡正剛氏という方がいる。編集工学研究所所長である。この松岡氏が「日本」というものを長年にわたって分析している。恥ずかしい話、私も昨年まで知らなかった方なのだが、淡輪に勧められ、編集という共通のキーワードをもった方の、日本論の勉強会に何回か出席した。
結論から言うと、目から鱗であった。人材マネジメントを主題に、日本というものを考え続けていた私に、文字通り、いくつかの編集の糸口を与えてくれた。
以下松岡氏の理論を時に借りながら、日本の組織編集力の本質について考えてみた。
日本の組織編集力 1 「弱者・敗者に優しい」
松岡氏の勉強会のとき、将棋の升田幸三名人の逸話が、例え話で出された。升田幸三は将棋の世界ではつとに有名な稀代の名人である。
実は、将棋はインドが発祥の地で、それが西洋のチェスから日本の将棋に至るまで世界に形を変えて広がったらしい。ところが、世界の将棋の中で、日本の将棋だけが相手から取った駒を使えるそうだ。なぜなのかについて、それを研究してきた人もいるらしいが、面白いのが升田幸三のとっさの解釈である。
戦後、升田幸三がGHQに呼び出され、「将棋はけしからん。相手から取った駒を使う。これは捕虜の虐待ではないか」と詰問されたらしい。
そのとき彼は、「とんでもない。チェスこそ、取ったらそれきりでそれこそ捕虜の虐殺だ。将棋は、取った相手を同じ身分で使う。これは虐待どころか能力の活用だ」というようなことを言ってGHQをねじ伏せたらしい。
とっさの機転が利いた解釈であるが、本質を突いているのではないかと考える。実は、この「弱者・敗者に優しい」という考え方を、切り口は異なれども、井沢元彦氏も『逆説の日本史』(小学館文庫)の中で指摘している(井沢氏は、そうした優しさの背景・真髄に、怨霊信仰という日本の土台となる心理があるとしている。出雲大社、菅原道真らの例を挙げながら、説得力あふれる理論展開をみせている。詳細は文庫シリーズを参照のこと)。
また、井沢氏は「世界のほとんどの国では、貴族(上流)階級の文化と下層階級の文化は全く別のものである」(『逆説の日本史G』小学館文庫)にもかかわらず、万葉集に庶民の歌が組み込まれている例などを挙げながら、日本では、そこが許されていることを指摘している。
日本は、格差がなかった歴史ではない。格差は明確にある。しかし、その格差の境をあいまいにする、あるいは問題にしない何らかの心理というか、文化というか、そういうものが働いていて、全体でみれば高い組織力を維持、構築してきたのではないか。
差はあるが、差あるものを切り捨てない。きっちり社会や集団という組織に組み入れていく。それは、個人に対する「認知」の仕方の一つと言えるが、そこに日本的組織編集力の特徴があると思える。
つまり、優秀な人を認知するだけでなく、弱者や敗者といった差のあるものに対して積極的に目を向けていく、認めていくというところに、日本の認知の特徴があり、日本の本来があると考える。
例えば、仕事が不慣れな人や、仕事が重なって残業になっている人を、他人が何の報酬的見返りもなく、ナチュラルにヘルプに入る国は日本を除いて、そうはない。とアラブ、イギリス、アメリカ、中国で仕事をしてきたキャメル・ヤマモトは言う。
しかし、お気づきの通り、こうした弱者に対する優しさが社会全般で急速に低下し、日本国という組織に所属していての、不安心理が高まっている。
これと同じことが、企業にも増加的に起きていると見ているが、果たしてその良し悪しを皆さんはどう判断されるか。
日本の組織編集力 2 「『あそび』の許容」
松岡正剛氏は、引き算にこそ日本の本質があると指摘している。負(マイナス)なるものを正(プラス)に転化し、正以上の正を生み出す力である。彼が説明に使ったいくつかの例を紹介する。
例えば、枯山水。京都の龍安寺や大徳寺のそれが世界的にも有名な日本庭園の様式の一つで、イギリスのロックガーデンというガーデニング手法はここから学んだと言われている。この特徴は何か。
本来自然の風趣を表現するために、庭園に遣り水を使うところを、枯山水は敢えて一切の水を使っていないのがその特徴である。つまり、「水を感じるために水を抜いた」のである。
実際に枯山水を見ると、水は全くないにもかかわらず、豊かな山水の小宇宙をそこに感じる。
例えば和歌。藤原定歌の代表作に「見渡せば花も紅葉もなかりけり、うらのとまやの秋の夕暮れ」という歌がある。この歌は、花も紅葉も「ない」と言っている。ないということを敢えて表現することで、かえって花・紅葉で燃える秋の情景を思い浮かばせる。このような表現技法を歌にもつのは日本独特らしい。
松岡氏の指摘通り、引くことで、本来導き出したいことをより引き出す。まさに積極的な引き算である。
したがって、足すときも、あるところまでやりあとは創造力に任せる、決してやり過ぎないと松岡氏は言う。例えば、茶の作法では、どうぞといって、ほんの少しだけ茶碗を押す。決して押し過ぎない。押し過ぎるとひっくり返ってしまう。
そういう文化、国民性は、我々の気質を振り返っても思い当たるものがある。日常的なレベルで言うと、日本人は強引なことに弱い。強引さは窮屈に感じる。アメリカ人等に強く押し出しをされると、かえってどこか引いてしまう気持ちにならないだろうか。
ところが、人材マネジメントを見ると、成果を出すための足し算で一杯一杯になっている。あとでも述べるが、これは日本の強みがもつ逆サイド、つまりリスクを補完するための取り組みとしては重要である。しかし、だからといってリスク側ばかりに立ってモノを言い、日本がもつ強みそのものを組織編集の手法から否定するというのはいかがなものかと考える。
この、積極的な引き算を組織編集の中に応用しているのが、「あそび」だと私は考える。あそびについての私の考えは、ワトソン ワイアットレビューVol.28で紹介をしたし、詳細はそちらを参考にしてほしいので、ここでは簡単に概略だけ述べる(バックナンバーはホームページで閲覧可能)。
「あそび」とは「必要なる無駄」のことである。一見成果とは無関係、いや合理主義者の目から見れば、すぐにでも排除すべきものであるが、その無駄があることで、モノ・コトとしてのありようが安定性、強靭性をそなえるものという定義である。
日本の絵画や演劇、音楽に見られる「間(ま)」にも通じていることだと解釈している。
したがって、組織編集という観点からは、無駄な「スペース」「場」というものの重要性を指摘し、例示として井戸端会議をワトソン ワイアットレビューVol.28でとりあげた(余談だが、ワトソン ワイアットの新オフィスでも、社員のカフェスペースの作りを重視した)。
また、個人で成果をガンガン上げるタイプの人ではないが、チームという組織編集のハブとして機能している、ヒーリングリーダーの存在について、同じ号でとりあげた。
引き算の効用を、今一度思い出し、そのバランスを考えた組織編集のあり方を再考すべき時期にきているのではないだろうか。そして、そこで良い解を出すためには、人間とは「深い」という立脚点に立つことがまずは肝要となる。
日本の組織編集力 3 「育てる」
日本の特徴を挙げるとき、揶揄を込めて中流という言葉を使うことが多いが、よりふさわしい言葉は、「均質化」だと考える。組織を構成するボリュームゾーンの人たちの力が均質的であるということだ。
普段日本に住んでいると気づきにくいことなのだが、これは、世界的にみて秀でていることらしい。例えば、識字率の高さが世界一であることや上述のような歌や能等の文芸のたしなみをかつて庶民ももっていたことなどを井沢氏も指摘している。
つい最近までは、子供たちの学力が世界トップクラスだった。つい最近までは、と表現した通り、実は均質力が落ちている。この問題は、国レベルだけでなく、企業においても同様なことが起きていないだろうか。リーダーやエリートの育成にばかり目が行き、ボリュームゾーンのミドル層以下のところへの「育てる」エネルギーは落ちていないだろうか。
低いレベルでの均質化と、個性なき個性を、「自由と自己責任」、「成果で全部清算されるから」という錦の旗のもとで、放置に近い状態になっていないかどうかを再考していただきたい。
それはそれで個人としては清算されるかもしれないが、組織力を作るという観点からは、それでいいのだろうか。
育てるというのは大変手間のかかる作業である。しかし、長期的に強い会社・組織であり続けるためには、全体が「高いレベルで均質化」していることは、重要でこそあれ、中流、個性がないなどという否定的な表現で揶揄されるものではないと考える。
松岡正剛氏は、異文化の融合において、分母と分子という考え方を強調される。分母というのは日本の本来・本質である。古来日本の強みは、分母をしっかりおさえた上で、異質を分子にもってきたところにある。そこで編集行為を加えて、新たなものを創造するのである。異質を飲みつつ、異質に飲み込まれない。それどころか新しいものを作る、この強みである。
しかし、近年の傾向としては、よく熟考がなされないまま、分母に異質をそのままもってくるケースが増えていないだろうか。例えば、アメリカの経営手法や、有名企業の制度の、熟考を経ないままでの導入、コピーである。そこには上記のような融合は起きえず、ただただ無力なものか、それに飲み込まれ、ただただ戸惑う人々しか生まれない。
何事にも強みの裏には弱みがある。上述した組織編集力にしてみてもそうだ。「弱者・敗者に優しい」は、ひとたび間違えると、甘え・相互依存・馴れ合い・責任感欠如・付き合い残業等を生む。
「あそび」は、文字通りの「遊び」につながり、さぼり、仕事なんて大体こんな程度で……とか、人が良ければそれでいい……等という意識の醸成リスクをはらむ。
「均質化」は、右並び、出る杭はたたくといった、組織的な弱みを生む要素となりうる。
だからと言って、すべてを弱みサイドに立ってものを語り、本来の強みを喪失させてしまってよいのだろうか。
これは、分母と分子を取り間違えた異質の編集と言える。確かに強みには、弱みとしてのリスクを内包する。しかし、淡輪が指摘するように、成果主義、ガバナンス、リーダー開発をはじめとした米国的仕組みは、そのリスクを補完するものとして取り入れるという姿勢・構えが大切であり、それによって分母を否定して排除すべきものではないと私も考える。
主従を間違えず編集を行うという、この心構えの復興こそが、日本が再度世界に突き抜けるためのポイントになると信じてやまない。
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