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【巻頭言】 |
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待ったなしの大学改革
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杉浦 恵志 |
大学の「生産・販売」する商品のうち、最も重要なものは「ヒト資本」である。大学がヒト資本形成に期待される役割は、近年特に重要性が高まっている。その背景には、以下のような社会情勢の変化があると考えられる。
@企業がスリム化するにつれ、社内で人材を育成するゆとりがなくな
ってきた。また、終身雇用の維持が難しくなり、企業固有でない高度
な知識や能力の提供が求められている。
A能力の中には、大学卒業までに固まってしまうものが少なからずあ
り、それらを入社後に開発することは容易ではない。
B営利企業という組織形態の限界が露呈し、NPOや個人として活動す
ることを選択する人が増加した結果、大学がヒト資本形成の最終的
な役割を担うようになった。職業以外の社会貢献についても、同じこ
とが言える。
にもかかわらず、現時点で日本の大学が果たしているヒト資本形成に対する役割は、決して満足な評価を得ていない。本稿では、なぜ大学によるヒト資本形成は十分ではないのか、また今後大学がヒト資本形成で重要な役割を担っていくためには、どのような組織改革が必要になってくるのか、論じてみたいと思う。
日本の大学がヒト資本形成に十分貢献できていない理由を見極めるには、企業や社会の人材ニーズが変化してきていることを理解する必要がある。昨今大学新卒の採用において、「即戦力」が求められるようになったと言われている。だが、必ずしも新入社員に先輩社員と全く同じような働きを期待しているわけではない。また、現在多くの大学が必死になって取り組んでいるように、業界事情を教え込んだり、資格試験講座を開催したりすることとも異なる。
企業が「即戦力」と呼んでいるものの正体は、以下の二つの能力ではないかと考える。
@ 絶えず状況を分析し、主体的な対応を自分で考える能力
マニュアル人間、指示待ち人間ではなく、自分の置かれた状況を把
握し、的確な判断を下して、迅速な対応をとれる能力のこと。自分自
身の能力についてもきちんと把握しており、独力で適切な対応がとれ
ない場合には、適切な先輩や外部の関係者等に助けを求める力も
含まれる。
A 好奇心が強く、知らないことを絶えず学び続ける能力
新しいこと、あるいは理屈の通らないことに対し、興味を持って調べ、
自分なりの結論を出さないと気がすまない能力(あるいは意欲)のこ
と。様々な大学で入試や学生支援に関する奇策がとられているが、
本当に大事なのは高等教育の原点に立ち返ることであり、教員の役
割は非常に大きい。
日本の大学がヒト資本形成の場とは言い難いのは、大学がこのように変化しつつある企業や社会のニーズに対応できていない、否、認識すらしていないためではなかろうか。大学の就職関係者は、自校の卒業生が期待する進路にあたる企業や社会の人材ニーズを、独自に調べているだろうか。調査結果を教育や学生支援の内容に反映しているだろうか。求人票のデータベース化や、リクルーティング業者による就職説明会の斡旋に留まってはいないだろうか。
昨今の受験生が重視する大学選択基準の中には、卒業生の進路や活躍が必ず上位に顔を出している。情報収集・調査分析に基づく総合的なヒト資本形成サービスの充実こそが、企業や社会との関係を深め、有意な人材を適所に輩出させ、学生確保に向けた最高の少子化対策になるであろう。単に学生の定員を確保するのではなく、優秀な人材を惹きつけることにもつながるのである。
大学がヒト資本形成の面で外部社会に貢献できるもう一つの分野は、研究協力や受託研究など、産学官連携による研究支援である。産学官連携には、地域社会の問題を自治体や市民団体などと一緒になって解決する地域(官学)連携も含まれる。とりわけ多額の研究費が必要な分野や、研究開発能力の乏しいベンチャーおよび地域にとって、この面で大学に寄せる期待は大きい。大学所在地の周辺一帯に対する波及効果が、期待の大きさに拍車をかけている。
しかし、期待はずれや喧嘩別れに終わった産学官連携も少なくないし、抽象的で実際の成果に直接結びつかない地域連携協定も珍しくない。その原因は、学生に対する就職支援と同様に、大学が企業や社会のニーズに鈍感なせいである。大学には、成果を社会全体で共有すべき基礎研究をやっているとの意識が強い。研究はあくまで教員が主導的に進めるものであり、企業や社会は、研究課題や材料を提供する「よそ者」として認知されているのではないか。
従来の研究協力や受託研究では、大学側が成果としての知的財産権を行使しない代わりに、委託元が商品化の可否、キャッシュフローに関係なく「不実施権」への対価を支払っていた。このような契約は、大学が知財化の難しい基礎研究にこだわった場合、企業や自治体にとって到底受け入れ難いものになっていくだろう。
今後は、委託元が大学の基礎研究を後押しし、競合に先んじた情報入手や人材育成など間接的な効果を期待する「寄付金」と、大学の研究シーズを利用して自社や地域の問題を解決する「委託契約」に二極分化していくのではないか。どちらの形態が中心となるかは学部によって異なるであろうが、委託契約を強化するなら、外部ニーズに関する情報収集と研究内容への反映、それにコーディネート人材のヒト資本形成が重点課題となるはずである。
大学は、ヒト資本形成において、外部社会に対し二重の責務を負っている。一つ目は、すでに述べてきたように、高度な知的人材の輩出および人材外部化の受け皿としての役目である。もう一つは、他の組織と同じように、内部人材のヒト資本形成である。国立大学の法人化や私立大学の経営破綻を目の当たりにして、各大学は生き残りを賭け、勝ち組としてさらなる発展を模索している。従来の業務効率を見直し、新たな事業や付加価値を創出するには、学内に優秀な人材を育て、あるいは外部から採用しなければならない。
ところが、皮肉なことに、人材を育成し輩出する教育機関が、組織内部のヒト資本形成を十分にやっているとは言い難い。なぜ大学の中にヒトが育たないのか、その理由を教員、組織、職員それぞれの視点から検討してみよう。
教員の評価は、どれだけ影響力の強い学会誌に論文が掲載されたか、掲載された論文の本数が何本あるか、共同研究であれば指導的な立場で研究に貢献したか、自分の論文がどのくらい引用されたかなどによって、判定されるのが基本である。
しかし、専門的な研究論文の量と質という画一的な評価で、大学や学部の発展に必要な教員人材を確保できるのだろうか。各学部の教育機関としての価値は、どんな人材の育成を目指すのか、どんな企業や社会に対し、どのレベルの人材が輩出してきたかによって決まってくる。それには、一つ一つの科目の内容がいくら優れていてもダメで、その組み合わせの魅力、および課外活動も含め全人格的な教育が求められる。
ところが、教員の人事権は通常講座レベルにある。当該講座が現代社会や科学のニーズにマッチしないものになっていたとしても、全人格的な教育を目指して学部・学科やコースの科目を組み替えようとしても、講座レベルに人事権があったのでは新陳代謝が起こらない。学部長が人事権を持ち、総人件費をめぐって本部と調整するのが筋であろう。とりわけ、社会人を対象とする専門職大学院に講座別人事が持ち込まれると、間違いなく失敗する。
また、教員の価値は研究水準だけではないはずだ。教員の論理的な思考能力や幅広い人間関係、深い専門知識などは、民間企業からすればうらやましい限りである。研究業績を期待する教員、教育改革を主導する教員、学外と関係を強化しニーズを吸い上げる教員、大学または学部運営に手腕を発揮する教員、大学のブランド価値を外部に向かって発信できる教員など、多様な評価軸があってよい。
採用には一定水準の教育・研究業績が前提となるが、様々な能力発揮の仕方を認められる活躍の舞台が用意されるべきである。
組織の視点から見たヒト資本形成の弱点は、私立大学に比べて組織設計の自由度が低い国立大学に顕著に表れている。国立大学は、教育研究に関する国家的な使命を遂行するために、文部科学省から予算の大半を獲得し、文部科学省の職員を理事や管理職として迎えている。その結果、私立大学にはない組織課題を抱えている。
国立大学は、つい最近まで国の機関であった。国内における大学の位置づけや、その大学を特徴づける戦略方針などは、すべて文部科学省で決定され、その戦略を遂行するための予算が確保されていた。つまり、組織としての意思を持つ必要はなかったのである。大学の自治は学問の自治であって、経営の自治ではなかった。
しかし、平成16年4月に法人化されたことにより、国立大学はもはや国の機関ではなく、独立した経営体になった。もちろん、教育研究に関する国家的な使命の遂行という部分は変わらないから、その基本的な方向性を外すことはできないが、与えられた予算やヒト資本の使い方については、いくらでも工夫の余地があることを意味する。また、財政再建や公務員制度改革の流れを踏まえると、カネやヒト資本の調達についても、国立大学が独自に考える部分がますます増えていかざるをえない。
それには、学生や企業、地域社会、他省庁から見た大学の魅力をアップさせることが大変重要であり、そのための活動や情報収集・分析、戦略立案により多くの予算やヒト資本を投入すべきである。また、上記業務の流れが、別な理由で設定された組織の壁によって歪められたり寸断されたりすることのないよう、「顧客志向」の組織変革も免れない。このような組織変革は、法人化前のマンネリ化した業務に新たな刺激を与え、職員の持つ潜在的な能力を一気に解放する可能性がある。法人化で学長への権限委譲が進んでおり、形の上では各大学が思い通りに組織図を描くことができるはずだ。
ところが、この組織変革は、文部科学省との間に大きな摩擦をもたらすことになった。文部科学省の中では、組織編制やキャリア形成が主として機能別になっている。したがって、国立大学が国の機関であった時代には、国立大学の中の組織も機能別に編制することにより、大学の財務部は文部科学省の財務系部門や職員と、大学の総務部は文部科学省の総務系部門や職員と関係を強化すれば、意思決定や職員ローテの面でとかく便利であった。文部科学省が機能別に方針を立て、全国の大学に一斉同報すればよかった。
法人化後に求められているのは、全学的なあるいは学部別の戦略であり、機能別の方針ではない。法人化で組織の枠組みが変わったにもかかわらず、内部編制が従来通りであれば、独立した経営などできるわけがない。その結果、中期計画の評価点検というマネジメントの仕組みを導入しておきながら、設定された目標の大半は達成しても大学がどのように発展するのか見えてこない小粒なものばかりである。評価点検自体、例えば「当該課題について検討する組織を立ち上げ、その証拠として議事録を残した」という程度でパスする、アリバイ作りのカラクリ評価に堕している。
独立経営体としての戦略的なニーズに基づき、上記のような業務を立ち上げ機能別でない組織に編制替えをすることは、連綿と続いてきた文部科学省と国立大学との居心地のよい対応関係を、コミュニケーションのメカニズムを部分的に、だが根本的に見直すことを意味する。大学改革のタテマエがどうであれ、文科省のホンネの部分では、このような「蜜月関係の創造的破壊」に向かって、いまだ勇気ある一歩を踏み出せていないように思われる。
職員の視点から見ると、大学のヒト資本形成が遅れた原因は、高度な能力を開発する必要性自体がそれほどなかったからである。大学間競争が激しくなかった時代には、職員は国の決めた手続きや指示を間違いなく遵守することが仕事の目的であり、創意工夫や業務改善、難しい状況判断などが求められる仕事は全体のごく一部であった。煩雑な事務を短時間に気難しい教職員の間で調整しながらこなすのは、体力的および精神的にきついのかもしれないが、ミスをしなければ、また上司や同僚の機嫌を損なわなければ、何がしかの成果は残せたのである。
しかし、競争が激しくなって新しく立ち上げた業務は、求められる成果が明確で職員の能力差もはっきりと表れるものが多い。成果を出すには、迅速的確な状況判断と、耐えざる創意工夫や業務改善が求められる。定型的な仕事に比べると、仕事の中ではるかに頻繁に応用力を試される未知の状況にさらされることになるだろう。業績や能力の違いも判断しやすくなり、働きに応じた動機づけや適材適所を実現していかないと、担当者がやる気を失い、期待された目的が果たせなくなる可能性がある。
国立大学の場合、他にも職員の能力開発を遅らせる要因がある。大学ごとに採用されるプロパーの職員は、どんなに頑張っても管理職になることが難しく、法人化後もプロパー管理職はあまり増えていない。管理職の大半は文部科学省からの出向であり、通常2〜3年のローテーションで本省や他大学との間を行き来している。特定の大学と運命を共にするプロパー職員と違い、改革の効果が出ることには他大学に回る可能性が大きい出向職員にとって、大過なく出向期間を全うすることが何より重要である。このような認識の管理職が部下の指導育成に尽力するとは考えにくい。
出向職員が管理職に就く理由は、日常業務に精通したプロパー職員では仕事のやり方を変えまいとする慣性が働くため、しがらみにとらわれない出向職員が他大学の優れたところを参考にして、業務を改善する責任を負ったほうがよいと考えられているからである。
裏を返せば、業務改善のできない出向者は、大学に対する忠誠心が弱いこともあり、法人化後の国立大学に迎え入れる必要性は乏しい。文科省との交渉を有利に進めるためという理由づけは、実力主義・地域主義の新しい大学行政の理念とは明らかに矛盾している。
したがって、今後はプロパー・出向関係なく、職員一人ひとりの職責を明確にし、評価結果を処遇に反映させることがポイントになる。現状の人事制度では、国立大学の経営陣が出向管理職の能力や業績を評価していないし、よしんば評価するにしても文科省人事に反映させることができない。
今後は、彼らを職責に準じて評価し、処遇に反映させるような仕掛けが必要となろう。文科省の人事評価に大学側の評価を反映させたり、あるいは転籍により大学人事権の管轄下に入れるなどの措置が必要となる。現場のない本省にはチャレンジングな職場が少なくなってきており、ヒト資本形成を目的としてあえて優秀な人材から大学に出すことも考えられる。
日本全体のヒト資本形成を支える大学のヒト資本形成機能は、実は非常にお寒い状況にある。それでも、私立大学は経営環境が苦しくなるにつれて、いち早く改革に取り組み、学生や教職員に対するヒト資本形成機能を懸命に強化し始めた。それに対し、授業料の負担が軽い国立大学は、少子化により入学可能性が高まった分、安定した人気を保っているように思われる。
しかし、日本の財政事情は非常に厳しい状況にあり、国立大学も近い将来、もう一段の授業料値上げや交付金の削減を迫られるに違いない。そうなったときに、一挙に競争力を高めることは不可能である。備えあれば憂いなし。できる限り早く改革に着手すべきではないか。法人化で学長のリーダーシップが強化され、改革の意思をつぶしてしまうほどの強力な阻害要因は何もないのだ。
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