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【巻頭言】 |
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【巻頭言】
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ワトソン ワイアット株式会社 |
40歳という年齢が、足音を立てて近づいてきた。自分はなりたい顔になれているのか。そんなことをよく考えるようになった。
顔はその人の人生を表す。年をとればとるほど、立体的に、これまでの生き方が刻み込まれる。
人の幸せばかり考えて生きてきた人は、まーるい顔をしている。
甘い汁を吸おうと生きてきた人は、ずるい顔をしている。
自分の信念と向き合ってきた人は、闘者の顔をしている。
言い訳ばかりしてきた人は、臆病な顔をしている。
日本企業はどうだろうか。約20年前、バブルという、何でもありの、やんちゃなハイティーン〜20代の青春時代を送り、我慢の30代を経て、40代になろうとする日本企業は、青春時代が終わって、あの時、「なろう」と誓った顔になれただろうか。
良いカイシャを測る尺度は、時代時代で変遷する。利益と言われたり、ROE(Return on Equity、株主資本利益率)と言われたり、メセナ(芸術文化支援)と言われたり、環境対応と言われたり。
しかし、最も大切なこと、変わらぬこと、いや、変えてはならぬことは、「正々堂々と自分の家族、とりわけ子供に誇れる会社」であるかどうかということだ。
「子供を会社に連れてきて、そこで働いている人の顔を誇らしげに見せることができるカイシャ」。これが地球視点で見たときの良いカイシャである。
人が生き生きと、誇らしげに働いている。カネ資本主義からヒト資本主義に移り変わる時代、このことが実践できていることの重要性は、ますます高まると考える。
業績が回復し、株価好調の企業も増えてきた。しかし、だからこそ、このタイミングで謙虚に自問自答してほしい。自分たちは、本当になりたい顔になったのか。正々堂々と自分の家族、とりわけ子供に誇れる会社であるのか。何をもってして、そう言えるのか、説明できるのか。説明のつかない、膨れ上がったものを、かつて「バブル」と称した。あの時、どんな反省が足りなかったのか、何を誓ったのか。
ニートと呼ばれる人たちと交流をもち、その問題に詳しい人が言っていた。彼らの親には共通項が一つあると。それは、親が有名企業や大企業に勤めているか、そうではないという問題ではない。裕福な家庭か、そうではないという問題でもない。その一つの共通項とは、親が「楽しそうに働いていない」という話だった。
したがって、楽しく働いていないという問題は、自分たちの時代だけの問題ではなくなる。未来に対して“良くない”のである。それゆえ、地球視点で見た時には、いっときのROEや利益の高さ以上に、これらを良いカイシャの条件とすべきなのである。
では、今、何をするべきなのか。最も大切なことであり、まずすべきは、己の哲学をしっかりもつということである。自分たちは何者であるのか、何者でありたいのか、だからどうしていきたいのか、社員という人間に対してどう考えるのかといった軸である。
しかも、それは、家族、子供たちを前にして、正々堂々と、まっすぐ目を見て、ごまかさず、誇りをもって言える哲学である。純粋である彼らに通じる哲学は、世界に通じる哲学となりうる。
心技体という言葉があるが、人はどうしても技術先行に溺れがちとなる。制度であったり、アクションであったり、もっと細かいテクニカルなことであったり。
しかし、現実には、哲学という判断基準の軸がないと、不具合が企業の中では起きる。例えば、芯の通った判断軸が不在の場合、えてして、何が本当に必要なのか、そもそもその制度やアクションが必要なのかなどが、十分問われないまま、選定行為自体が目的化する。しかも、明確な判断軸がないので、そこに並ぶ、制度やアクションプランに対して、「目先感」や「どこか有名な会社で取り入れている」とか「あそこでは失敗しているらしい」といった判断軸が頭をもたげ、意思決定を裏付ける。
あるいは、担当者が自分の理解できる範囲で、自分ができることという中に、選択そのものを矮小化して、意思決定を推進する。
この結果、企業は、本質的にはあまり意味をもたないことに、たくさんのお金の無駄遣いをするはめになる。もっと悪いことは、そのような「意思決定装置」の中で働くことで、社員は必要以上の仕事をかかえて多忙となり、また、その多忙に見合った本質的な結果がないために、「疲弊する」「混乱する」「猜疑心をもつようになる」「相互信頼ができなくなる」、そして「心理的に楽しくなくなる」。
子供たちの目を見て語れるだけの誇り高き哲学の欠如、すなわち誇り高き判断軸の欠如は、「この立場の人、この立場の会社が、信じられないことを起こす」といった不具合ももたらす。耐震強度偽装、違法改造、不正会計操作……数年前雪印事件が脚光を浴びたが、減るどころか、止まらない。しかも、数年前は、発覚したときに反省の色や涙する映像がテレビ画面から映し出されたが、昨今は、「何が悪いの?」という態度や、開き直りの、罪悪感なしの映像が目につく。判断軸が哲学ではなく、「自己都合」になっているからである。まわりが見えていない、まわりのことを感じていない、全部自分の都合で考えていることが判断軸になっている。だから、何が悪いのか、悪い理由や人々が怒っている理由がわからない。自己都合軸がすべて。それゆえ、テレビカメラの前で、隆々と、いくらでも止まることなくしゃべり続ける彼らの自己哲学に、人々は本能的に「本物の哲学」を感じることがなく、違和感と、ささくれ感のみが、その映像を見た後に残る結果となる。
こうした流れのなか、昨今、モチベーションという言葉が人事の人たちの中ではやりだが、そこは注意してかかるべきである。表層的な取り組みでお茶を濁してはいけない。業績の回復とはうらはらに、なぜ社員のモチベーションがそれほど上がらないのか。忙しいわりに心のスカスカ感があったり、異様な疲労感を感じている理由は、先ほど語った通りである。
したがって、会社としての、哲学のあり方に手をつけずして、またぞろ表層的な「モチベーションを上げるためのそれらしい制度、パッケージ」にお金を使っても、多くの問題は解決されることがないのである。哲学なき成果主義が「それらしく見える制度やパッケージ」を導入しても、思ったほどの効果をもたらすことがなかったように。
確かに哲学は、制度やパッケージのように目には見えにくい。しかし、「だから会社の中で論じない」のではなく、「だからこそ社員の心に刻印されるくらいまで論じるべき」ものである。
心技体の技に脊髄反射的に走る前に、経営の心=哲学を今一度、このタイミングで論じること、そして論じ続けることが、家族や子供を前にして、正々堂々と誇って語れる良いカイシャになるための、まずやるべきことなのである。
次にやるべきことは、人を見るときの立脚点を、これも、今一度仕切り直すことである。端的に言えば、人の存在に対する「多様性の受容」である。カネ資本主義からヒト資本主義への移行の時代、この立脚点がない、あるいは弱い会社は成り立たなくなっていくに違いない。社会が複雑化することで、一人の人間、一つのタイプの人間だけですべてを賄うことが無理だからである。多様な能力の有機的結合体、つまり、それぞれの特徴的な能力をリスペクトし合って結びついた集合体作りが、これまで以上に必要になってくるのである。
仕切り直す、という言葉を使った理由がある。それは、10年程前、成果主義を企業が取り入れていこうとしたときに、声高にみんなが唱えたのは、こうした社会の到来を前提にした「減点主義から加点主義への移行」だったからである。それはまさに、人がもつ、多様な特徴的な能力を積極的に見ていこう、という宣言だったはずである。差ではなく、違いを大切に見ていく、というその宣言は、「格差こそが成果主義」という、目で見て「乗りやすい」仕組みの流れに飲み込まれて、いつの間にか消えてしまった。
その象徴となって現れたもの、そして、その思考スタイルこそ、今後気をつけなくてはいけないのが、「二極化して人を語る」という風潮だ。「金持ちと貧乏」「A様とB様」「上流と下流」……。
人に対する説明の都合上、発信者が物事を単純化、記号化して分類するというのは必要なことである。大きな潮流、大きな構造を、まずは把握してもらうことが、はじめてその話を聞く人の理解を促進するためには必要だからである。しかし、リスクもある。不用意にそこに接する受信者が、「それがすべてである」という認識をしてしまうリスクである。わかりやすいだけに、そこでわかった気分になり、それ以上の自分なりの練り込み作業に入らないまま、その段階で思考停止するというメカニズムである。
悪いことに、そうした二極分類型の情報が社会に昨今うずまいている。しかし、人々はその情報をすべて読み込むわけにはいかないので、正確な中身知らずのまま、「上流と下流」のように「二極分類された記号」だけが頭に記憶される。テレビをつけても、ネットに飛び込んでも、はたまた、電車に乗って中吊り広告を眺めていても、二極化記号が目に飛び込んでくる。これが一種の洗脳効果を生んでしまう。
人はもともと優越感をもちたい動物である。そうした動物である人間に対して、二極化とその記号化は「人を残酷化させる」という特徴を持つ。それを世界史上最も悪意に利用したのが、ナチスである。ユダヤと非ユダヤという分類と記号化、そして収容所における人の番号化。
もちろん、そこまでのことが企業で起きるわけではないが、対抗軸に対して「切り捨て御免」の行動が促進されやすくなる。
また、劣等側に分類、記号化された人々の無力感、失望感、絶望感も同時に生む。したがって、自分を優等側に分類して、額にその記号をつけた人間が、いくら口で「みなさんの活性化のために」と言っても、その言葉は白々しいものとしか受け止めてもらえないだろう。最悪のケースが、そうした単純分類をし、記号化した社会に対する復讐である。
これでは、社員の顔は誇り輝かない。
極と極の間にこそ、多様性はある。いや、極と極というもの自体が、そもそもなく、多様性こそがすべての社会、すべての物事を構成しているのである。
存在を否定されたら人は悲しい。存在を認知されたら人は嬉しい。嬉しい人の顔は輝く。顔が輝いている人はいい仕事をする。いい仕事は人を楽しくする。そして、家族や子供に、正々堂々、一緒に働く仲間の顔を、誇らしげに見せることができるようになる。
以下本レビューでは、我々コンサルタントが「良いカイシャ」というテーマから発想される、企業の組織と人材の課題とその解決の方法について、各自の視点から論じています。皆様にとって、良いカイシャとは何かを自問自答する一助になれば、望外の幸せです。
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