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【巻頭言】 |
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「レベル3人材」の評価と「レベル4人材」の発掘
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杉浦 恵志 |
コンピテンシー評価は、今や完全に人事評価における市民権を得たと考えてよい。横文字ではわからないから、無理やり「成果行動特性」などと翻訳していた日々が懐かしく思い出される。コンピテンシーは、従来の能力評価と違い、評価項目や評価基準を「成果を持続的に出すために必要な具体的な行動」として明示しており、部下の行動へ当てはめる際に主観が入りにくい(ような気がする)ことが、広がりを見せた要因ではないか。
しかし、民間企業の導入事例や専門家の解説などに一通り目を通してみると、世の中で「コンピテンシー評価」と呼ばれているものの中には、私の感覚ではそうでないものが相当部分を占めているように思われる。コンピテンシーとは名ばかりで、当該職務の担当者が誰でも実施することになっている作業(課業とも呼ばれる)が評価項目になっていたり、職務を遂行するのに必要な行動の難易度が評価基準になっていたりすることが少なくない。
本来コンピテンシーは、評価項目にあるような行動を被評価者に強制するものではない。被評価者が内発的な動機付けによって行動したかどうかを評価するものである。上司からの指示待ちや組織に染みついた行動習慣、報酬やポストによる誘引などの外部的なきっかけではなく、被評価者本人が組織方針と環境要因を踏まえた上で、成果を出すためによかれと考えて遂行した行動のみが、状況の変化にうろたえたりすることなく、持続的に成果を出すことができるのである。
したがって、ハイパフォーマーが成果を出した行動が、いつでもどんな業務にも通用するわけではないし、評価の対象を評価項目に載っている具体的な行動に限定すべきだとも思わない。評価項目よりも評価基準(レベル感)のほうが実ははるかに重要であり、それをワトソンワイアットでは以下のように表現している。
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表/コンピテンシー評価基準 |
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上記の評価基準では、コンピテンシー評価は定型的な業務を担当する職種や階層には向かないということができる。定型業務においてパラダイム転換や創造が求められることはまずないであろうし、規則を公平かつ確実に適用するような部署では、独自の判断や創意工夫がかえって不都合を生じることもある。
また、レベル3以上と評価するためには、被評価者の行動の背景にある動機や理由、判断などを精査しなければならず、それらに関する情報の収集には非常に骨が折れる。しかし、5つ星レストランのシェフが洗練された調理器具を用いても、腐った食材から美味しい料理ができないように、どんなに優れた評価者が客観的な評価基準を使っても、突き合わせる行動や判断理由に関する情報(「評価材料」)がいい加減であれば、まともな評価など期待できない。
通常、民間企業の導入事例や専門家の解説には、評価項目や評価基準の内容やその成り立ちについて詳細に説明しているが、評価材料をどのようにして集めるのかについては、評価者の観察であったり(内発的な動機は外から見えない)、漠然と「インタビューによる」とあったりで、あいまいにぼかしている。
ワトソンワイアットでは、このように外から見えにくい被評価者の主体的な判断に関する情報を収集するために、アセスメント・インタビューを実施している。それは、被評価者が成果を出した経緯とその中で遂行した具体的な行動、その行動をとった動機や理由などを時間の流れに沿って聞き出す手法である。聞き出した動機や理由が合理的なものであれば、たとえ状況が変化しても、あるいはより困難な仕事を任せたとしても、成果を再現してくれるのではないかという期待を感じさせる。このように、今後も成果を出し続ける可能性を能力として認定するコンピテンシー評価には、アセスメント・インタビューは欠かせないノウハウとなっている。
しかし、全社員を対象に毎年アセスメントを行った場合、それだけの時間をかける価値があるのか、手間に見合った意味があるのか考えざるをえない。同じ職責の中でより高度な知識やスキル、作業や行動を積み上げる職掌の人材にとっては、それらをダイレクトに評価したほうがよいのではないか。したがって、コンピテンシー評価が万能ではないことを認識し、職責の変化が求められる上位等級への登用や、その候補者の選抜に限定するのも一つの考えである。
コンピテンシー評価の限界は、対象者の範囲にとどまらない。業績の評価であれ人事の評価であれ、評価はマネジメント・サイクル(PDCA)の検証(C)に該当し、その結果を踏まえて改善や育成(A)につながるから意味がある。コンピテンシーを人材育成に活用しやすい評価だと主張する論者は、評価項目や評価基準が具体的に表現されているため、それをベスト・プラクティスとして見習うことができると考えている。しかし、前節で述べたように、本来のコンピテンシー評価基準は、特定の行動が見られるかどうかではなく、行動が何であれその背景に行為者の合理的な判断があるかどうかを重視するものである。
先の論者が言うように、ベスト・プラクティスを真似するだけでよいのであれば、行為者が置かれた状況に関係なくひたすら同じ行動を繰り返すということにもなりかねず、コンピテンシー評価の哲学から最も離れたところにあるメッセージといわざるをえない。定型的な業務や職責の緩やかな業務であれば、職務行動基準や課業基準は大いに参考になるかもしれないが、コンピテンシー評価が最も適している階層や職種に対しては、このような育成方法はナンセンスであり、根本的な矛盾をはらんでいる。
これに対し、以前私は、評価とインタビューを切り離し、後者の手法を職種や階層にかかわらず育成に活用してはどうかと提案した。すなわち、部下に組織の方針や個別の指示を一方向的に伝えるコミュニケーションのあり方を見直し、部下の担当業務への取り組み状況をもっぱら聞き出すことによって、部下の行き詰まりや伸び悩みの原因を論理的・経験的に解明し、問題が本人の行動や判断の仕方にあると明らかになった場合には、具体的にどこをどのように直せばよいのか、お互いに知恵を出し合うというものである。
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図/マネジメント・コミュニケーション |
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しかし、成果主義的な人事制度の下で、コンピテンシーを活用した人材育成が円滑に行われるであろうか。なにしろマネジメント・コミュニケーションを通じた人材育成には、非常に手間がかかる。上司はプレーヤーとして、自らの目標達成に向けたくさんの仕事を抱えており、部下のためよりも自分や自分の上司のために割く時間が増加していて、とてもそんな余裕はない。部下は部下で、若くて職責の緩やかな段階から業績目標を課せられており、気合と根性と状況対応的な問題解決で成果を出そうとしている。
ニートをめぐる論議では、近視眼的で試練を避ける現代の若者像が批判の対象になっているが、変化の激しい業界や営業時間が長い業界、結果だけが求められる業界において、成果主義的な評価を肯定的にとらえ猛烈に働いているのも、彼らなのである。彼らは仕事を通じて人の役に立っているという使命感を持っているし、過酷な勤務にも集中して取り組んでおり、顧客や同僚に評価されることで苦労が報われると感じている。
ところが、年月を経るにつれ、状況対応的な問題解決が持続的な能力として蓄積していないことに、ある時点ではたと気づく。年齢とともに気合と根性は消耗し、自分の将来やアイデンティティが不安になる。最近の調査では、ニートのかなりの割合に正規社員として働いた経験があり、「思っていた仕事と違った」とか「やりたいことに挑戦したい」という人間に混じって、過酷な働き方に燃え尽きて自分を取り戻すために非正規社員を選ぶ若者が相当混ざっていると報告されている。
成果主義的な人事制度を導入している会社にとって、前表コンピテンシー評価基準のレベル3に該当する社員は、非常に便利な存在である。しかし、彼らは不断の状況変化に対応するのに精いっぱいで、コンピテンシー的な能力を発揮してほしい階層にたどり着く前に疲れ果て、持続的に成果を出すような判断ができなくなってしまうかもしれない。ある一時点をとっても、社員は手持ちの心的エネルギーや情報処理能力を課題達成のために使い果たし、仕組みやシステムを考える余裕はないだろう。コンピテンシー評価を導入すれば、自動的に人材育成が活性化するというような、そんな簡単な話ではないのである。
誤解を避けるために申し添えるが、私は気合と根性と状況対応的な問題解決は不要であるとか、長期的に問題を悪化させるということが言いたいのではない。そのようなレベル3人材は、刻々と移り変わる状況の変化や気まぐれな顧客ニーズに即時柔軟に対応することを迫られる現代の企業にとっては、必要欠くべからざる人たちである。しかし、常に受け身に対応しているようでは社員が疲れてしまうし、何より競争の激しい業界では、覇権を目指すライバル企業の仕掛けたパラダイム転換に飲み込まれてしまうかもしれない。
したがって、企業を支えるレベル3人材が疲れ切ってしまわないように、業務を標準化・簡素化したり、仕組みやシステム、戦略をデザインし、従属変数をコントロールできるレベル4人材が必要となる。レベル4人材の特徴をもう少し詳しく述べると、以下のような能力を備えているのではないか。
@仕事本来の意味や、顧客や組織にとっての存在意義に照らして、関
連の薄い業務を思い切って捨象する。それだけでも、状況対応型人
材の負担を減らすことができる。
Aさまざまな状況に対応した経験を統一的に説明できる「勝ちパター
ン」を編み出し、それに従って自らの行動をコントロールする。当初は
経験則のように個人的な感覚をパターン化したものにすぎないかもし
れないが、いずれは科学的・論理的な知見を交え未知の現象も想定
できる「必勝パターン」へと発展させることができる。
B現代の組織では、さまざまな事象が複雑に絡み合っており、自らの
行動が他者の思わぬ反応を引き起こして、自分に跳ね返ってくること
がある。このように、局所的なその場しのぎの状況対応がかえって将
来的に問題を悪化させてしまう可能性を理解し、全体の反応を読み
切った上で判断を下す。
こう考えてみると、レベル4人材の発掘には、成果に直接関係のない幅広い情報や経験が必要になってくる。成果主義的な人事制度の導入により短期的な業績をあまりに重視すると、理解よりもうまくできるほうに価値が置かれてしまい、自らの「勝ちパターン(仮説)」の検証に不可避である失敗やムダを避けるようになるかもしれない。ほうっておくと、どうしてもできる人に仕事が集中する傾向にあるので、そのような時間的余裕を作り出すために、短期的な業績負担を緩和して組織横断的なプロジェクトを体験させる会社が増えている。ただし、極限的なプレッシャーのかかる修羅場を潜り抜けてこそ「必勝パターン」に昇華するという意見もあるので、意識的な検証作業が求められる。
しかし、企業が優秀な人材の育成にかける時間にはおのずと限りがあり、それだけ教育課程の役割には期待がかかる。より根本的な問題は、このような試みでレベル4人材を育成することができるのかという点である。レベル4人材の原石は卒業までにほぼ出来上がっており、企業は原石を選抜して採用し、選ばれた人材が上記の能力を発揮して自ら育ち開花させる場を提供することはできるが、自ら原石を生産することはできないということも考えられる。
最近では、コンピテンシー評価を新卒採用に活用する企業が増えている。しかし、相手の反応を見ながらその都度キャラを変え、その場の雰囲気を盛り上げることに熱く燃えるが、やりたいことが刹那的で、イベントが済むと急激な脱力感に襲われる学生が少なくないという。主体性や「ストレス耐性」を重視するタイプのコンピテンシー評価は、運用次第で状況対応はうまいが、「小賢しい」人材を過度に重視することにならないだろうか。
レベル4人材の原石は、むしろ知的好奇心にあふれ、腰を据えて学術研究や社会的課題に取り組んだ人材に多く見られるのではないか、というのが私の仮説である。彼らを「学者」や「活動家」と峻別するには、上記レベル4人材の特徴B、すなわち「他者の行動や判断いかんによって、自分の行動が影響されることを理解して行動している」かどうかを確認すればよい。グループ・ディスカッションなど、そのあたりを見極める手法のさらなる洗練に期待がかかる。
企業がレベル4人材の育成に果たすことのできる役割はおそらく限られており、学校教育の貢献が非常に大きいと思われる。企業では日々の業務や顧客の要望に追われ、なかなか腰を据えて原理的に「必勝パターン」を追究することは難しい。興味を持って学習を継続し、理解度を根源的に深めていく力をつけるには、やはり教育課程で知的好奇心を刺激することに尽きるのではないか。
少子化による受験生の減少や財政支援の削減、また就職難や新卒採用のミスマッチを受けて、学生に対するキャリア教育を「売り」にして力を入れる大学が増えている。その多くは、応募フォームの書き方に始まり、筆記試験や面接対策、資格講座まで就職活動を支援するものや、事務職や特別に採用された(多くは社会人経験のある)教員が、社会人をゲストに迎えるなどの工夫を凝らしながら組織や職業の現状を伝え、卒業後社会人生活にすんなり溶け込めるよう認知ギャップを埋めようとするものである。
特に後者の活動は、就職した途端に「こんなはずではなかった」と別の仕事を探し求めるようなムダをなくすものであり、その意義は大きい。また、現在の大学数は増えすぎであり、企業の中には即戦力を求めるというところも少なくないのだから、大学といえども高校の専門科や専門学校と同様に職業教育を充実させ、職業知識やスキルを教えるべきであるという議論も否定できない。
しかし、それでは大学の授業は(特に文科系の学部では)、卒業後の職務遂行とほとんど関係がないのであろうか。理工系でも、博士課程で専門分野を極めると就職に不利になるというのはどういうことか。もしこの通りなら、大学へ行くより高校卒業後いくつかの職業を体験しながら専門教育を受け、社会人生活に慣れていったほうが、よほど企業にとっても学生にとってもありがたいであろう。現状普通科高卒生に対する求人率が低いのは、現在の大卒のレベルが一昔前の高卒レベルになってしまったからであり、大学教育が評価された結果高卒に比べて選好されているからではない。
基礎的な学力や受験対策を受け身で授かる高校までと異なり、本来大学というところは、学生一人ひとりが科学技術や社会文化に関する問題意識を抱き、根本的な原因を解明したり、知識を応用して実社会に役立てたり、技術や作品を磨いて前世代を上回る成果や感動を生み出したりするための準備をするところである。もしそうだとすれば、大学教員の第一の使命とは、学生の好奇心を刺激して、生涯にわたって持続的に学習するよう動機付けをすることである。そして、まさにこれこそが、レベル4人材の原石を育成するために不可欠なことではないかと、私は考えるのである。
ある工業大学では、全学年を通じて参加できるプロジェクトがあり、例えばソーラーカーの開発などに取り組んでいる。そこでは、新入生もいきなり自動車の開発に参画できるわけだが、実際には工学の知識が乏しいためほとんど下働きで終わってしまう。応用イメージの湧かない工学の基礎知識から教えるのではなく、まず興味のあることに取り組んで基礎の重要性を痛感させるアプローチは、どんどん進歩する技術を絶えず学習する必要に迫られる現代において非常に有効なのではないか。
また、駆動系を担当する学生(チーム)が単独で問題を解決しようとすると、制御系や材料系、デザイン、空気抵抗、コストに至るまで新たな問題を引き起こしてしまう。根本的な解決を図るために分野を超えて議論を尽くし、最終的に新たな仕組みやシステムを創造する過程は、まさにレベル4のコンピテンシーを要求するものである。そういう意味で、大学教育や教員が若者の仕事基礎力を作る意味は、非常に大きいと思われる。
さらに、知的好奇心の刺激は、大学に入学してからでは実は遅すぎるのかもしれない。大学入学と同時に目的意識を失う学生も少なくないためである。初中等教育で継続的な学習に興味を持たせるという意味では、ゆとり教育と一緒に批判されている現在の総合学習の可能性を再評価してもよいのではないか。
総合学習への批判は、次の2 点において完全に的外れである。第一に、評価尺度が従来の学力を基準としており、総合学習やゆとり教育が目指す成果を測定するようになっていない。そもそも学力の向上を目指しているのではなく、継続的な学習の習慣づけという点では、成功している学校やプログラムも少なくないと思われる。第二に、制度がいきなり導入され、運用の当事者である先生が適切な訓練や動機付けを受けていない。公立中学校に通う私の娘から聞いたのだが(多少脚色してある)、何の下準備もせず生徒に豚肉と牛肉の栄養面での優劣をディベートさせた先生がいた。その先生は、事前の情報提供も途中議論のコントロールもせず、最終討議の中で「豚肉は、先生を連想させるから嫌い」と強烈な一撃を食らい、怒って職員室に帰ってしまったそうである。
ゆとり教育の問題では、授業時間の削減ばかりに関係者の関心が偏ってしまったが、授業時間を削らずにより絞った内容をいろんな寄り道をしながら教えるというやり方もあったはずである。知識を直接教えるのではなく、子供たちの常識に反する事象やどれも本当っぽく見える複数の選択肢を与えたり、ある程度は教えるがわざと肝心な部分をぼかしたりして、好奇心を喚起する。自らの仮説を確かめるために、うまくいくとわかっている以外のやり方をやらせたり、課題遂行に直接必要でない情報を収集させたりして理解を深める。なぜ特定の手順や手続きがうまくいくのかを考えさせ、背景にある仕組みを解明し、もっとうまくいく方法や別パターンを知りたいと思う気持ちにさせる教育ができないものだろうか。
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