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【巻頭言】 |
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多様性のマネジメント
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永田 稔 |
先日、所用でシンガポールを訪れた。
シンガポールは歴史的に貿易中継地であり、東洋と西洋の結節点のような地域である。彼の地には、イギリス、中国、インドなど各国の人種や文化が入り交じり、独特の雰囲気を醸し出している。旅行者レベルの理解ではあるが、この多様な地を成立させているConstitutionは何かと考えてみた。この地を成立させているものの一つは、シンプルなルールではないかと考えた。よく知られているが、シンガポールでは美化に関するルールのシンプルさ、厳格さが知られている。このシンプルさ、厳格さは多様な人材を束ねていく際には有効な手段であろう。文化や慣習の違いによらず、基本の部分で行動を押さえていく方法である。またシングリッシュと呼ばれるシンガポール製英語もよく知られている。ブロークンイングリッシュである。文法よりも言葉本来の役割の一つである意味伝達に重きを置いた言語である。言葉は、意味伝達のみを役割とするものではない。その前段階の思索も言語を中心に行われる。また意味伝達をする際の、装飾、形容においても言語の果たす役割は大きい。そのような複数の機能を持つ言語を意味伝達のみの機能に絞り込み、多様な人材を束ねる方法としている。ブロークンに束ね、その上に多様な文化を開花させているのだ。
現在、ユニバーサルマネジメントが注目されている。上記のシンガポールの例はユニバーサルマネジメントの一つの例であろう。筆者も最近ユニバーサルマネジメントについて尋ねられることが増えているが、管理に関心が向きすぎている傾向を感じる。確かに現実問題としての人事管理は必要である。ただ、多様な人材のマネジメントという命題を雇用形態のみの問題として片付けてしまうのはあまりにもったいないのではないだろうか。多様性や異質なものを取り込む作業は企業革新の一つのエンジンである。このエンジンをどうデザインするかが、現在問われているのではないだろうか。
そしてそのデザインに必要なものはフレームワークであろう。いきなり個別具体的な管理方法に入るのではなく、多様性やユニバーサルというものをどういう枠組みでとらえるべきか、何を統合し何を分散するのか、を議論する視点が必要なのではないか。
欧米の企業や日本の企業を観察して思うことは、人材の何を統合し何を分散させるのかについて探ってきた歴史ということがわかる。現在、ユニバーサルマネジメントについて日本企業の先を行くと目されている欧米企業について見てみよう(欧米とひと括りといかないと思うが、便宜上括らせていただく)。
欧米企業は巷でいわれるように、マニュアル的、フォーマット的な方法に長けている。例えば、組織のあり方やそこでの役割をグローバルで共通に定義する。当然、そこに微修正が入るものの、基本はこのフォーマットを世界各地に落としていくのである。この方法は、多様な人材を、それがグローバルであれドメスティックであれ、役割や成果というフォーマットしやすい部分に重点を置きマネジメントを行う方法である。また、欧米の企業はルールを厳密に設定し運用をするなどの傾向がある。一方、日本企業はこの号の他の稿でも指摘されているように、日本人、男性、正社員という雇用形態を中心とした組織運営であり、組織や役割は人に応じて伸び縮みする。運営ルールも、裁量面が大きく厳密に運用されているとは言い難い状況である。
この人材マネジメントの違いをどうとらえるべきであろうか。
筆者はこの違いを、Value、Code、Modeというフレームワークでとらえてみた。Valueとは文字通り価値観であり、そこには社会観、労働観や仕事観、コミュニティや会社への価値観などが含まれる。人の価値の置きようである。特に、企業の人材マネジメントにおいては、対象となる従業員がどのような価値観を有しているか、そのバリエーションや幅はどの程度か、はマネジメント上重要な押さえるべき点となる。例えば、仕事に対する考え方は国や世代によって大きく異なるであろう。仕事を人生そのものと考える人々と、仕事は生活の糧を稼ぐ方法であると割り切る人々とではマネジメントの方法が異なる。また会社という場をどうとらえているかによって、ある施策が全く正反対の効果を生み出すこともある。このように対象となる人材群がどのような価値観を有しているのか、一方企業としてどのような価値観を共有したいのかを考える必要がある。
次のCodeとは、情報を表示、記述する方法やその意味のことである。代表的な例は言葉である。ただし、今回Codeという言葉を使うのは、言語よりも広い情報表示、意味づけを意図しているためである。例えば、「言われたことをそのまま行うことは『仕事』ではない」という言葉は、ある世代の日本人にはすっと理解できる言葉だが、別の世代や日本人以外の人には理解し難い言葉となる。これは、仕事という言葉が意味するものが違うという面が大きい。このCodeの共有度合いは人材マネジメントのありように影響を与える。
最後のModeとは、やり方や流儀である。仕事の進め方が代表例であろう。価値観や言葉が共通でも、その人なりの仕事のやり方が存在する。例えば、同じ会社の中で過ごしてきた同僚同士でも、お互いの仕事の仕方を見てこんなにも異なるのかと驚いた経験は誰にもあると思う。この「やり方」の違いが、Modeの違いである。
このValue、Code、Modeというフレームワークで見ると、上記した欧米の会社はマニュアル化やフォーマット化という「やり方」の方法論を提示し、Mode中心によるマネジメントということがわかる。おそらく、もともと欧米の会社が持つ機械論的な会社観や仕事観に加え、価値観(Value)や言語(Code)の異なる人々をマネージしてきた歴史が育んできた方法であろう。一方、日本の会社は、Value、Codeで似通った人を集め、かつそれらを長期雇用という中でさらに強化をしていく組織である。よく耳にする例が、転職してきた人が「言葉がわからず疎外感がある」と言い、その一方「仕事のやり方が体系化されていない」と不満を漏らすのは、このせいであろう。日本の会社は、均質的なValue、Codeを利用しながら、多様なModeを認める、良し悪しはあるが均一的な仕事のやり方を明示しない、という組織運営方法をとってきた。
この方法論の違いは、企業の進化にも影響を与えた。大半の日本企業に見られる多様なModeを認める組織運営は、現場における自由度が高くかつ創意工夫を生み出しやすい。日本的な強い企業とは、多様なやり方(Mode)が生まれ、その中でも有効なやり方が共有される「したたかな」企業である。このタイプの企業は、多様なModeのため改善的な進化や連続的な環境の変化には強みを持つ。また、Modeレベルでの自由度は人間が持つ創造の喜びも引き出す。その一方、この組織運営にも弱みは存在する。価値観(Value)や言語(Code)が均質なため、ものの見方や現象の解釈が単一的になりやすい。このためパラダイム転換的なものの見方が生まれにくい特質を持つ。仮に生まれたとしても、その変革をModeレベルまで徹底するのは大変困難である。これはまさに日本企業が直面する「変革の難しさ」である。その反面、欧米の企業は多様な価値観(Value)や言語、解釈(Code)が異なる人で構成されている。この多様さは、ものの見方や解釈の幅が大きいため、企業の有り様などについてのそもそも論の議論が生まれやすいと考えられる。またModeレベルでの統合に長けているため、強制力をきかせた足並みを揃えての変化が可能である。ただし、画一的なModeへの依存は漸進的な改善を生み出しにくく現場レベルでのしたたかさは弱い。このように、Value、Code、Modeのどこを統合し分散させるかは企業の進化にも影響を与えるのだ。
それでは、今後の日本企業が受けるチャレンジと対処方法はどのようなものだろうか。
上記したように、日本企業はValue、Codeで均質化し、Modeを多様化させる組織であった。このValue、Codeの均質化は日本企業の置かれた環境(日本という国や社会)に負う部分が大きかった。現在直面しているのは、与件であったこの環境の変化である。すなわち、真のグローバル化の要請であり、世代間の異なる価値観であり、異なる働き方の登場である。従来、暗黙的に「同じだよね」と了承していたValueやCodeが多様化してきているのである。多様化したValueやCodeの扱いに戸惑い、その一方で欧米的なModeレベルでの束ねにも従来の強みを失うリスクに気づいているため、立ちすくんでいるのが日本企業の現状ではないだろうか。
この問題に対し、欧米的な方法だけでなく、日本独自の方法はないだろうか。ここで再度問うべきは、果たして日本企業は本当にValueやCodeの多様性を扱うことが苦手なのであろうかという問いである。
歴史を振り返ると、まったく別の姿の日本が浮かび上がってくる。日本は長年の歴史の中でたびたび異なるValueやCodeに直面してきている。例えば、漢字を日本へ取り込んだ経緯はその代表的なものであろう。話し言葉として存在をしていた日本語に対し、書き言葉、話し言葉双方の機能を持つ漢字の流入である。この際には、漢字の持つCodeを上手く利用しつつ、日本語化するという統合を実現している。また、宗教においても、もともと八百万の神で多様性に富んでいた日本であるが、そこにさらに仏教の伝来があった。その際にも、この二つを共存させ、さらには融合したものまでをも登場させている。このような例は枚挙に暇がない。日本は決して、Value やCode の多様性を扱うことが苦手な社会ではない。むしろ、上記した例に見られるように独特の方法を持っていると考えている。
その方法とは「同立」と「折衷」である。「同立」とは、異なるものを同時に並存させる方法である。この方法は時に消極的と呼ばれるが、あえてどちらかと決めずにおく、同じく並べてみるというフラットな関係構築の方法である。この方法は、いずれのものもそれなりの価値を持ち、意味を持つという世の中に対する姿勢であろう。世界が一元的な方法で限界を呈する中、この「同立」という方法は意味を持つのではないか。もう一つの「折衷」も日本の方法論である。折衷案というと、いかにもお互いに譲歩をしながらの案のように聞こえるが、本来の意味は異なる。折衷とは「相異なる哲学・思想体系のうちから真理あるいは長所と思われるものを抽出し、調和させて新しいもの作り出す」ことである。高度な創造の方法である。どちらかを選ぶという極に固執せず、「同立」させ「折衷」する。この運動をVision、Codeレベルでも行うことを取り戻す必要があるのではないか。
この同立、折衷の方法の可能性を考えてみよう。人事の同立とはどのようなものであろうか。例えば、雇用形態と業務や役割の関係をあえて決めつけない会社。どのような雇用状態の人でも可能性が開かれている会社。これを法的に強制されるものでなく、相互の尊重を基に自主的に実現を目指している会社。情報は国境も雇用形態の違いもなく平等に開示し、知恵の創出も同様に求めていく会社。評価も正社員だけでなくパートの方も契約社員の方も参加ができる会社。最も大切にすべきは意欲であり、学習の機会が意欲の前には平等である会社。最低限の共有すべき価値観を有しつつも様々な価値観の人が集い交流が図られる会社。
このような会社こそが、フラット化しつつある世界、その一方、多様性を増しつつある世界に求められているのではないだろうか。多様性をこそ取り込み、よき会社、強き会社、温かな会社、許容する会社へと、多面性を持つ会社に変容するチャンスではないだろうか。
この道は決して楽ではないだろう。その過程では様々な摩擦も生じるであろう。ただし、そこで生じる様々な対立や理解の蓄積は、その会社の土壌を豊潤なものへの変えていくであろう。
そしてその豊潤な土地は、さらに魅力ある人々をひきつけてやまない。
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