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【巻頭言】 |
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昔話に学ぶ多様性活用
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河合 太介 |
人間は基本的に多様性が嫌いである。同質性のほうが好きである。自分と同じような人間との関係性、その中での生活のほうが何かと楽だからである。逆に、嫌いでなかなかうまくいかないから多様性はテーマになるのである。
嫌いだから、放っておけば、組織の中で多様性は排除する方向に向かう。したがって、多様性に本気で取り組もうとするならば、人工的な仕掛けが企業には必要となる。
さて、その必要となる人工的仕掛けとは何か。
まず、多様性とは何かをはっきりさせる。多様性とは、「違い」である。私は男だけれど、あの人は女だという違い。私は日本人だけれど、彼女は中国人だという違い。私は、国語が得意だけれど、彼は算数が得意だという違い。今の時代、小学校の教室一つとっても随分な多様性がそこに存在する。
それでは、多様性を活かすとは何か。それは、違いを違いとして蔑視するのではなく、違いを違いとして尊重することである。
「私は国語で90点を取ったけれど、算数で95点を取った彼もすごい」と言って、相手との違いを前向きに受け入れることである。
頭の中ではわかる。しかし、現実では、人間が出来ていないと、なかなか相手との違い、特に相手の良い点を認めることはできない。それは一般的な人の感情としては、癪(しゃく)に触ることである。だから、人工的な仕掛けが必要となる。
そのヒントは、誰もが知っている昔話、桃太郎にある。桃太郎にはご存知の通り、イヌ、サル、キジの3 匹の動物が道すがら合流し、チームを結成する。犬猿の仲というくらい仲の悪い動物が一緒のチームである。おまけに、腹が減れば、(今の時代のペット犬とは違って)野生のイヌだからキジくらいは襲って食べてしまうだろう。考えようによってはすごい多様性である。この多様性を桃太郎が活用できたポイントは何か。
桃太郎がやったことは、
@「鬼退治」という目的・目標を明示したこと
Aそれをメンバーに納得の上、シェアさせたこと
Bその目的・目標を達成した暁には、きびだんごというインセンティブ
があることを示したこと
である。
これがあったからこそ、イヌ、サル、キジの3匹は
「それぞれ言いたいことはあるけれど、ここは一つ言葉を飲み込んで、
お互いのいいところを出し合って、共通の敵を倒しましょう」
となったのである。
実際、鬼を倒すとき、イヌは噛みつき、サルはひっかき、キジは目をつつく、というそれぞれの得意技によるチーム総攻撃をかけている。
さて、グローバル化、女性活用……等々、多様性活用を目指す皆さんの会社はいかがでしょうか。
その先にある目的・目標を社員に明示する努力を桃太郎のようにきちんとされているでしょうか。
また、そこで明示すべき内容はどうあるべきでしょうか。
桃太郎に学ぶのであれば、達成売上やシェアや利益というものに留まらず、もっと感情の琴線に触れる理念性の高いものであることが必要ではないでしょうか。
この仕掛けなしに、「相手との違いを尊重しましょう」と言っても、その必然性が当事者には十分に腹に落ちない。それが人間の感情というものである。
「お互い野暮なことは忘れて」となるための崇高なものが、もともと多様性が嫌いな人間という生き物には必要なのである。
そうでなければ、「日本人・男性・年長者」は、「主役は自分たちであって、他のアジア人や女性や若手は、あくまで脇役。大切なところでは引っ込んでいなさい」という意識・行動から、なかなか変化しないのである。
実は、西遊記の三蔵法師も孫悟空、沙悟浄、猪八戒といった多様性チームを率いるため、桃太郎と同様の行動をしている。
しかし、さらに興味深いプロセスが西遊記の物語にはある。
その前にまず、ここで確認したいことがある。それは、人間は、相手の「尊重すべき違い」よりも、「マイナスとなる違い」のほうに目が行きやすいという点である。つまり、弱点に注目してしまうという癖である。
しかし、持ち味の片方しか見えていないということは、相手との違いを正しく認識していないということになる。
そして、弱点という形でしか相手が見えていない人たちには、実は行動の共通項がある。それは、
「相手とのコミュニケーションをガチンコでとっていない」
ということである。
これでは、相手を正しく理解することはできない。これでわかることは、偏見を前提にした弱点だ。
例えば、育児について理解のない夫は、育児についてのコミュニケーションを妻ときちんと行っていないと言われる。
その反論として「いや、自分は妻と育児について話をしている」と主張する男性もいる。
この夫と、妻との認識の違いは、「自分の育児論、身勝手な意見を妻に一方的に押し付けている」ことに夫側が気づいていない点である。
「身勝手な」というのは、妻のできていないところ(弱点)ばかりを取り出してなじるというわけだ。
このようなものはコミュニケーションとは言えない。
しかし、似たような"コミュニケーション"が、「日本人・男性・年長者」と「外国人・女性・若手」の間で起きていないだろうか。
西遊記では、孫悟空、沙悟浄、猪八戒の関係は、当初は、ひどいものだった。相手の弱点を取り上げて、罵り、喧嘩をするという関係だった。
しかし、面白いのは、旅という道中を通じて、お互いがガチンコのコミュニケーションを行い、三蔵法師がそれを辛抱強くつきあい(度がすぎると叱るが)、そのうちに、お互いが弱点ばかりでなく、長所に気づき、それを尊重し合うチームになっていく点である。
こう考えると、現実の、生身の世界では、お互いの持ち味が見えるためには、(論理的・システム的な仕組みによる相手・状況の)「可視化」レベルを超越しなければならない。つまり、現状どうなっているかが「頭の中でわかる」というレベルでは相互尊重の意識の域にまでは到達しないのである。
すなわち、もっともっと触れ合って、お互いを感情的に理解する「可触化」レベルにコミュニケーションを引き上げなくてはいけないのである。
そのためのコミュニケーションコストへの投資と工夫を、多様性時代は積極的に仕掛けていくことが必要となろう。
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